疑問に対して答える。
「彼の経は且く、不共の所依と未転依の位と見分が所了とを説けり。」(『論』第五・十七左)
(彼の経は、しばらく、不共の所依(五根)と未転依の位と見分の所了(相分)とを説いているのである。)
契経は、しばらくは不共依(五根)と未転依の位と見分の認識対象(相分)とを説いていると述べています。共依を説かないのではなく、ここでは除外しているということです。「未転依の位と見分の所了とを説いた」ということは、已転依の位と自証分も除外して説かないということになります。自証分は相分を認識対象とせず、見分を認識対象としているのです。ここではそれを除外して見分の認識対象である相分を説いているのです。眼識なら色境のみを説いているという事です。
「論。彼經且説至見分所了 述曰。彼經且説諸所依中不共所依。簡餘依也 未轉依位。簡已轉依縁一切法。但言縁色等 見分所了。簡自證分。其實五識亦了識等。若依餘根・轉依位・自證分等。義即不定。亦了聲等。乃至廣説今此且據少分位説。非究竟言 有義此解非稱論文。此中論云如經説等。但明六識之次。引彼六識之經。證成六識自性。非爲前伏難有此論也 即第三句了境爲性相。體・相二門 了者即通自性 自性即自證分 行相即是識之見分。縁相爲境。自證爲見之依縁見爲境。是故總言了境爲性相 又解不須如是分別。此中但解了境者。是識自性。亦是行相。行相是用故。」(『述記』第五末・五十五右。大正43・418a)
(「述して曰く。彼の経は且く諸の所依の中の不共の所依を説いて余の依を簡ぶなり。未転依の位と云うは已転依の一切法を縁ずるを簡ぶ。但だ色等を縁ずと言う。見分の所了と云うは自証分を簡ぶ。其の実は五識も亦識等を了す。若し余の根と転依の位と自証分の等に依ると云わば、義即ち不定なり。亦声等を了す。乃至広く説くべし。今此れは且く少分の位(因位未自在)に拠って説く。究竟の言に非ず。
有義は此の解は論の文に称うに非ず。此の中の論に云く、経に説くが如し等と云うは、但、六識を明かすの次に、彼の六識の経を引きて、六識の自性を証成するなり。前の伏難の為に此の論有るに非ずなり。即ち第三の句の「了境為性相」と云うは、体と相との二門なり。了とは即ち自性に通ず。自性と云うは即ち自証分なり。行相と云うは、即ち是れ識の見分なり。相を縁じて境と為す。自証が見の依と為る。見を縁じて境と為す。是の故に総じて「了境為性相」と言う。
又解す、是の如く分別すべからず。此の中に但だ境を了すとは、是れ識の自性なり、亦是れ行相なり。行相は是れ用なるが故にということを解す。」)
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「これは識というのは、いわく了別と定義されているが、識はビジュニャーナ、了別はビジュニャープチという。識は阿頼耶識とか末那識とかいう。作用の主体をあらわす時にビジュニャーナである。しかし唯識という時の識はビジュニャープチである。了別は唯識の識をあらわす。だから識という場合は了別というような作用をもったものである。了別というのは識そのものが現行している場合であり、作用が実現している場合である。了別境の識というのは識であるが、識は境を了別するものである。了別とは、境の了別である。識は了別という作用を持ったものであり、了別というのは境の了別として境の方に力がかかる。六種の境の了別、それを六識という。つまり六境になったもので、六境というものが内容としてあらわれている識であり、六境として顕現している識である。境を了別する用きが了別としえそこにあらわれている場合はである。」(『安田理深選集』巻三p235)
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