唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (28) 諸根互用・文献を引いて相違を会通

2012-08-20 21:17:51 | 心の構造について

次は、「四記の等(ごと)きを作(な)すという。」と述べられています。この四記は意化の中の領受意化を指しています。領受意化の四記(四記答)をもって有情の問いに対して答え導いていくわけです。それが成所作智の具体的な働きなのです。

 「衆生等は楽と苦とを各々領受を為すが如く、その如く諸の如来の成所作智は領受を為す。この意化業によって諸の如来は一向と分別と反問と置答とに於て回答すること等に応ずるが如く、回答すべき為に過去と未来と現在の諸義の領受を為すなり。」(『仏地経』)

 如来の成所作智と衆生の迷妄は対応しているのです。衆生の迷妄に随って如来の成所作智は働いているのですね。

 「弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。」(『教行信証』教分類)

 と、親鸞聖人は明らかにされました。曽我量深師は「如来我となりて我を救いたまう」と了解されています。

 如来の成所作智の働きがあるからこそ、衆生の心行の差異が分かるのです。これが心など一切の境を縁じて諸根互用している証拠としているのです。若しこのような遍縁がなかったならば、衆生の教化はあり得ないということを述べています。

 「領受化の中に四記等を作す。謂く、一向記と分別記と返問記と応置記となり。此れが中に復た人・法不同なること有り。別抄(『義林章』七本)の中に広く分別せるが如し。

 (身化の中に相違を会通する) 其の身化の中に『仏地経』に業果化を現じて根・心等を現ずることを説く。然るに『瑜伽』(巻第九十八)に説く、四の事をば化すべからずと。一に根、二に心、三に心所、四に業果なり。彼と相違す。下の第十に准ずるに、心を化せざると説くは、二乗等に依って説く。業果等も亦爾なり。故に知る、仏に在って通じて能く之を化す。又仏は之を化すとも実の勝用無きが故に化せずと名づく。似を化すことは亦得。境を知ること遍ずるに由るが故に此の能有り。

 問。此の本頌の文は唯識を明かすと雖も、但だ見分のみを説く。然るに見は根に依って起こる。相は猶(従?)見より生ず。何が故に本文に根と境とを弁ぜざる。」

 この問いに対する答えは次の科段に於いて述べられます。『荘厳論』に説かれている「麤顕同類」について、諸根互用が起こった時、五識は、それぞれ五境を縁じるのか、それとも一切法を縁じるのか、という問いにこたえられたものなのです。『荘厳論』に諸根互用の対象が五境であると述べられているのは、麤顕と同類ろいう言葉の表現が違うだけであって、六境(一切法)と相違はないと会通したのを受けて、本科段ではさらに『仏地経』を引用して諸根互用した五識は一切諸法を縁じることの論証としています。

 衆生教化は、五識が転じた成所作智が、遍く一切諸法を縁じることにおいて成就するのであると説いています。


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (1)  題号

2012-08-19 12:25:28 | 『阿毘達磨倶舎論』

 阿毘達磨倶舎論本頌

 「阿毘達磨倶舍論本頌 説一切有部 世親菩薩造 三藏法師玄奘奉 詔譯」 

 「分別界品第一四十四頌」(大正毘曇部29・310c)

 (『阿毘達磨倶舍論』本頌 説一切有部 世親菩薩造 (唐の)三蔵法師玄奘詔を奉って譯す。)

 初めに選号と訳号が示されています。『倶舎論』本頌の著者は世親菩薩で、訳者は唐の玄奘三蔵であることであり、詔を奉って訳したと述べられてあります。

 「分別界品第一」に四十四頌ある。『倶舎論』九品の中の第一が界品(がんほん)で、主に十八界について一切諸法を論述されています。十八界を分別し説明するという意味で、分別界品と名づけられます。

 ダルマの体系 (前序)

 「分別界品第一 諸一切種諸冥滅 拔衆生出生死泥 敬禮如是如理師 對法藏論我當説」(大正29・1a)

 (諸の一切種と諸との冥を滅し、衆生を抜いて生死の泥(でい)を出でしむ。是の如き如理の師を敬禮(きょうらい)す。対法蔵論、我れ當に説くべし。)

 『倶舎論』巻頭に世親は、この論を造る主旨を述べています。「抜苦」の為である、と。輪廻の泥沼から衆生を救いだすために、この論を造るのであるということですね。

 生死泥は生死大海ともいいあらわします。輪廻転生することを譬えていわれているのです。「如理の師」とは、理に叶った方で、三徳(智徳・断徳・恩徳)を兼ね備えた方、仏・如来のことです。智徳とは智に備わった徳で、智には煩悩を断ずる力があるとされます。断徳は、煩悩の断じられた功徳で、恩徳は衆生済度の利他の功徳です。仏にはこの三徳が備わっているということです。そしてこの三徳の備わった人に帰敬することを示しています。

  • 智徳 - 一切種冥滅
  • 断徳 - 諸冥滅
  • 恩徳 - 抜衆生等

 これで仏の三徳を明らかにし、後に「敬禮如是等」全体で帰敬序になり、次の一句で発起序(「対法蔵論等」)が述べられます。

 上山春平氏は「『倶舎論』の最初の二章をなす界品と根品に述べられているダルマの体系は、作られる過程に即して発生的にとらえることのできる有為の総体を、すでに作られた所与のものとして前提しながら、それを構成要素に分解するという、いわば論理的な分析の所産にほかならない。・・・・・・(業品・随眠品の冒頭の言葉の)こうした心理的分析の視点を媒介することなしに、いきなり界品と根品で展開されているような論理的分析に接すると、いたずらに煩瑣なダルマの定義や分類に眼をうばわれてしまって、仏教本来の実践的認識とダルマの分析との関係を見失ってしまうおそれがあるのではないかと思う。」と『倶舎論』に接するときの注意点を示唆されています。

 輪廻の連鎖は人間そのものを明らかにする手がかりになるかと思われます。輪廻は三界・五(六)趣・四生とに尽きるわけです。これが迷いの境界になります。天界といえども迷いの境界から抜け出すものではないということです。では何故このような輪廻の在り方をするのか、とう問題にアビダルマの論師たちは一様にそれは有情の行為(カルマ・業)による、と。

 業とは何であるのかが問われることになりますが、一般的には因果業報という捉え方をしているようです、いわゆる「善因善果」・「悪因悪果」あるいは「自業自得」ということです。しかし、こういうとらえかたは正しいのでしょうか。アビダルマの論師たちは「否」という答え方をしています。厳密には「善因楽果」であり、「悪因苦果」である、と。善因は善の果を報い、悪因は悪の果を報いるという言い方はできないということなのです。これはいたずらな宿命論・運命論に陥るわけです。過去の行為が現在の自己の境遇を決定し、動かすことができない、というあきらめの人生観になるのです。この思想には今の自己の境遇を引き受けて「悪を転じて徳と為す」という信念はありませんね、そして今の境遇は未来の自己の境遇を決定するものであるという考え方はありません。「自己とは何」と考える時に、善導大師は「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と教えておられます。自分がこの世界に生まれたのは自分の責任であるということです。外に原因はないということです、縁になることはあっても、主体的には自分が因である、これが「自己とは」を考えていく時の鍵になると思いますね。

 少し横道にはずれましたが、本論に戻ります。次に題号が示されます。

 「淨慧隨行名對法 及能得此諸慧論 攝彼勝義依彼故 此立對法倶舍名」

 (淨慧と随行とを対法と名づく。及び能く此を得る諸の慧と論となり。彼の勝義を摂すると、彼に依るとの故に、此に対法倶舎の名を立つ。)

 前節の「対法蔵」は阿毘を対、達磨を法、倶舎を蔵と訳し、その論であるということです。淨慧は無漏の慧のことで、それに随って一処に起こる心・心所です。淨慧随行を対法、阿毘達磨と訳しています。倶舎を蔵と訳していますが、蔵に二義あるといわれています。一には包含の義、二には所依の義です。蔵の中に大切なもの(発智六足等)が摂められ、それを所依の蔵としているという意味です。「摂彼勝義」は包含の義をあらわし、「依彼」は所依の義をあらわしています。そしてこのに義に依って、『対法蔵論』或いは、「阿毘達磨倶舎論』と名づけられているのです。

 「若離擇法定無餘 能滅諸惑勝方便 由惑世間漂有海 因此傳佛説對法」(大正29・311a)

 (若し擇法(ちゃくほう)を離れては、定んで余の能く諸惑を滅する勝方便なし。惑に由って世間は有海に漂う。此れに因って仏は対法を説くと伝う。)

 対法はどういう意味で何故説くのか、誰が先に対法を説いたのかということについて答えています。

 擇法は無漏の慧のことで、世間は惑に依って生死大海に浮沈している、無漏の慧を離れては諸々の惑を滅する方法はないことを示しています。そこで釈尊は対法を説かれたのであると伝えられている、と説明しています。

 次回は業と輪廻について「諸法仮実論」を参考に考えていきます。

 

 


第三能変 能変差別門 (28) 諸根互用・文献を引いて相違を会通

2012-08-18 23:39:46 | 心の構造について

 「論。佛地經説至無此能故 述曰。佛地論第六廣解此義 三業化合有十種。其四記等亦如彼説 決擇心行。即八萬四千法門意業化也。四記亦爾。佛地經説。身化有三。一現神通化。二現受生化。三現業果化 語化亦三。一慶慰語化。二方便語化。三辨揚語化 意化有四一決擇意化。二造作意化。三發起意化。四領受意化 此中所説決擇有情心行差別。初意化也 賢劫經第二卷説。最初修習法波羅蜜多。乃至最後分布佛體波羅蜜多。三百五十。 一一皆具六到彼岸。如是總有二千一百。對治貪・嗔・癡。及等分有情心行。八千四百。除四大種。及六無義所生過失。十轉合數八萬四千 領受化中作四記等。謂一向記・分別記・返問記・應置記。此中復有人法不同。如別抄中當廣分別 其身化中。佛地經説現業果化現根心等。然瑜伽説四事不可化。一根・二心・三心所・四業果。與彼相違癡准下第十説不化心。依二乘等説。業果等亦爾。故知在佛通能化之。又佛化之無實勝用故名不化。似化亦得。 由智境遍故有此能 問。此本頌文雖明唯識但説見分。然見依根起。相猶見生。何故本文不辨根・境。」(『述記』第五末・五十二右。大正43・417b~c)

 (「述して曰く。『仏地論』第六に広く此の義を解せり。三業の化に合して十種有り。其の四記等に亦、彼こに説くが如し。決択心行というは八万四千の法門、意業の化なり。四記も亦爾なり。

 『仏地経』に説かく、身化に三有り、一には神通を現じて化し、二には受生を現じて化す。三には業果を現じて化す。語化に亦三有り。一には慶慰(きょうい)語化、二に方便語化、三に辯揚語化なり。意化に四有り、一には決択意化、二には造作意化、三には発起意化、四には領受意化なり。

 此れが中に説く所の「決択有情心行」というは、初の意化なり。『賢劫経(けんごうきょう)』第二巻に説く、最初の修習法波羅蜜多より乃至最後の分布仏体波羅蜜に三百五十有り。一々に皆六の到彼岸(六波羅蜜)を具す。是の如く総じて二千一百有り。貪と瞋と癡と及び等分との有情の心行を対治するに八千四百あり。四大種と及び六無義とに生せざるる過失を除く。十転合して数うれば八万四千なり。」

 八万四千の法門の説明がされています。何を以て八万四千を数えるのかという問いに対して、修習法波羅蜜多から、分布仏体波羅蜜多までに三百五十の法門があり、その三百五十の法門の一つ一つに六波羅蜜を備える、合して二千百の法門となる。この二千百の法門が貪と瞋と癡と及び等分の有情の四つの心行を対治するので、掛け合わせ(2100×4)ると八千四百の法門となる。そこに四大種と六無義(有情が執着する六塵)の生じる過失を除いた十を、さらに掛け合わせる(8400×10)と八万四千の法門となると述べています。

 衆生の機根に応じて救済するために八万四千の法門が説かれることになります。これが決択意化をさしているのです。

            (つづく)


第三能変 能変差別門 (27) 諸根互用・文献を引いて相違を会通

2012-08-17 20:42:29 | 心の構造について

教を引用して相違を会通。

 「仏地経に説かく、成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起こし、四記の等きを作すという。若し遍縁ならずんば、此の能無からんが故に。」(『論』第五・十七右)

(『仏地経』(大正26・318b)には、次のように説かれている。成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の教化を起こして、四記などを行う。

 もし遍縁がないならば、この力はないであろう。)

  • 成所作智 - 成所作は、なすべきことをなしおいえること。行為を完成させること、成所作智はその作すべきことを成就する智慧。一切の衆生を救済するために、あらゆる場所に変化身を現じる智慧。
  • 心行 - 有情の心のはたらき。
  • 三業の化 - 三業の教化である身化・語化・意化のこと。
  • 四記 - 質問に対する四つの答え方。一向記・分別記・反問記・捨置記の四つ。
  1. 一向記 - 問いに対しそのまま肯定し答える方法。
  2. 分別記 - ある質問に対していくつかの観点から分けて(分析判断して認否を行う)答えること。
  3. 反問記 - 相手の質問に対して、まず問いかえして、その後に答える方法。
  4. 捨置記(しゃちき) - 答えるに足らない問い、答えるべきではない問いに対しての対応で、答えないことで対応するもの。
  • 遍縁 - 遍く一切の対象を縁じること。

 『仏地経論』に、「成所作智」とは、「能く遍く一切世界に於て応化する所に随って応に有情を熟す」・「種々無量無数不可思議の仏変化事を示現し方便して一切の有情を利楽し常に間断無し」と述べられ、『仏地経』には「妙生よ、譬へば衆生等の身業は勤励す。其によって諸の衆生は農業と商業と王の役人等を趣求するが如く、その如く諸の如来の成所作智は勤励す。その身化業によって諸の如来は、衆生の一切の業と工巧処の傲・慢等を如来の業と工巧処の一切を示すのみにて摧伏して、又、かの方便善巧によって衆生等を教の中に帰向せしめ、成熟せしめ、解脱せしむるなり。」と説明されています。尚、『仏地経論』巻第六(大正26・318b)に詳細が述べられています。

 「成所作智とは、諸如来の化身なり。其は又、三種にして、身化と語化と意化となり。その中、身化とは三種にして、神通示現と生示現と業異熟示現となり。・・・云云」

 身化に三種・語化に三種・意化に四種あり、意化の四種には決択意化・造作意化・発起意化・領受意化がある。本文に述べられている「決択有情心行差別」とあるのは、この中の決択意化を指し、「意化は四種なり。決択を為すとは、衆生の心行を決する因相あるが故なり。」と、即ち、成所作智が衆生のこころの働きを見極めて、善巧方便し、衆生の疑惑を断ち、利益を与えて済度することであり、具体的には八万四千の法門を開き説くことです。

 「作四記等」は、領受意化の四記を指します。「領受を為すというについて、領受とは、楽と苦とを正しく受容するなり。その因相あるが故に領受を為すなり。成所作智は実に、四問記の義を身に感受するの因相有るが故に意化の業を身に感受するなり。・・・」

 『論』の主旨は、仏に「有情の心行の差別」がわかるのは、これは仏の成所作智(前五識が転じて得られた無漏智)が縁じているからであり、五境のみならず、心など一切の境を縁じて諸根互用をしている証拠であると述べているのです。遍縁がなかったならば、教化活動は不可能となるということを示唆しています。

 ですから、教化という問題は偏に仏にのみ可能ということなのです。私たちにとって教化者意識というものは厳に慎まなければなりません。 (この項つづきます)

 

 


第三能変 能変差別門 (26) 諸根互用・相違を会通

2012-08-15 17:35:22 | 心の構造について

 能変差別門については2010年4月5日~4月14日に概略を述べています。重複しますが、概略を参考にしながら学びます。

 相違を会通 (諸根互用が起こるとされる自在位に三説出されていましたが、諸根互用が起こるのは、仏果のみに限るとされる『荘厳論』の所説と相違する点について会通します。)

 「荘厳論に、如来の五根は一一皆な五境の於に転ずと説けるは、且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」(『論』第五・十七右)

 (『荘厳論』(大正31・605a)に、「如来の五根は、一々すべて五境に対して転じる」と説かれるのは、しばらく麤顕(そけん)と同類の境によって説くのである。)

 『論』に諸根互用とは「一根が識を発して一切の境を縁じる」と述べられていました。しかし『荘厳論』には「如来の五根は、一々すべて五境に対して転じる」と説かれており、即ち、所ね互用は「如来」と限定されているわけです。前節で『述記』が説明していましたが、諸根互用が起こるのは、初地以上とする説・八地以上とする説・仏果とする説として、いずれも承認されていることから相違が生じているわけです。また、「五境の於に転ず」と説かれているのは、『論』の所説と相違するのではないのかという問いに対して、そうではないと会通しているのです。

 『述記』の説明を先ず伺うことにします。

 「論。莊嚴論説至同類境説 述曰。彼第二卷中菩瑜琁薩品説。此能唯在成所作中故唯佛地。或即初地。或入八地。此是本義。彼論一 依麁顯。二依同類。實縁一切皆無障礙爲縁如不。西方二説。一云許縁。佛智通故。二云不縁。名成所作縁事智故。准下論文此解爲勝。然甚難知。如何諸根説名互用證此識義。一根發識縁一切境。擧所依根顯能依識 如何互用。了色名眼不至能取。法相所談。了觸名眼令至能取。豈非雜亂 名字於法非即銓定。是客名故。了色名眼。且依小聖・異生身説。若據佛位 了觸亦名眼。此文爲證。二得名中。但隨第一依根受稱。通在自在位無相濫失。如樞要説。」(『述記』第五末・五十一右。大正43・417b)

 (「述して曰く。彼(『瑜伽論』)の第三巻の中の菩提品に説く。此の能は唯だ成所作の中にのみ在り。故に唯『仏地』のみにあり。或いは即ち初地にありといへり。或いは八地に入る。此は是れ本義なり。彼の論は一に麤顕なるに依る、ニには同類なるに依る。実は一切を縁ずるに皆障碍なし。

 (問)如を縁ずと為んや不や。

 西方に二説あり。一に云く、縁ずと許す、仏智は通ずる故に。二に云く、縁ぜず、成所作と名づくるをもって事の縁ずる智なるが故に。下の論文に准ぜば此の解を勝と為す。然るに甚だ知り難し。

 (問)如何ぞ諸根を説いて互用と名づくをもって此の識の義を証するや。

 一根、識を発して一切の境を縁ずるをもって、所依の根を挙げて能依の識を顕す。

 (問)如何ぞ互用するや。色を了するを眼と名づけ、至らざるを能く取ると云うは法相の談ずる所なり。触を了するを眼と名づけば至って能く取らしめば豈雑乱するに非ずや。

 名字は法に法に於て即ち銓(はか)り定むるものに非ず。是れ客名なるが故に。色を了するを眼と名づくるは且く小聖と異生との身(未自在位)に依って説く。若し仏位に拠らば触を了するを亦眼と名づく。此の文を証と為す。

 二の得名の中、但だ第一に随う、根に依って称を受けること、通じて自在位に在り。相濫ずる失無し。『樞要』に説くが如し。」)

         ―      ・     ―

 『荘厳論』に説かれる諸根互用の記述に対する会通がこの「且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」という点です。

 「彼(『瑜伽論』)の第三巻の中の菩提品の説なり。此の能は唯、成所作の中にのみ在り。故に唯『仏地』のみあり。或いは即ち初地にありといへり。或いは八地に入る。此れ(『成唯識論』)は是、本義なり。彼の論は一には麤顕(五境)なるに依るといい、ニには同類なるに依っていう。実は一切を縁ずるに皆障碍なし。」(『述記』)と。

 「論(『成唯識論』)に、荘厳論より同類との境の故に至るは、彼の論(『荘厳経論』巻三・別転変化を説く偈とその釈)の第三の偈を案ずるに、是の如き五根転じて変化して増上を得、諸義所作に遍ずること、功徳千二百なりと云えり。」(『演秘』)

 『荘厳論』引用の偈は五根を転じて変化することを顕していると説明しています。

  •  問題は前説に「一根が識を発して一切の境を縁じる」と述べられていたことです。『荘厳論』には「如来の五根は一々すべて五境に対して活動する」と云われていることはどうしてかということです。「如来の」と説かれるのは仏果でなければ諸根互用しないので、あえて菩薩の名をあげず、「如来の」と説かれるので、問題は無いとしています。「疏に、或いは即ち初地というより此れは是れ本義なりに至るは、仏地論の中には義に本(義)と別(義)と有り。本を挙げて別を簡べり。」と。本義と別義がある中の本義ということです。
  •  「しばらく麤顕と同類の境によって説く」といわれますように、略して五境で諸根互用を述べて会通しているのです。何によって略しているのかは「麤顕と同類」の二点からなのです。広義の立場は一切境を縁ずるのですが、ここでは法境が除かれて説かれているのです。『荘厳論』では五境を麤顕とする、狭い立場から五境に対する五識の諸根互用を表しています。「同類」は五境は五根の同類と云う事です。五根では、法境を認識することは出来ませんから同類ではないのです。「如来の五根は」といわれていますからその五根の同類は五境ということで述べられているわけです。一切境の諸根互用を否定しているわけではありません。
  •  「成所作の中にのみ在り」。成所作は、成すべきことを実行するということですが、ここでは智慧ですね。成所作智(じょうしょさち)で前五識を転じて得られる智慧のことで、「無漏の眼識乃至身識の五は皆神通変化の所作をなすこと勝れたり、是の故に成所作智となづく。」といわれています。真実は、「一根が識を発して一切の境を縁じる」ことで、一切境について諸根互用であるというのです。 

『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅲ

2012-08-15 12:38:43 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 安田理深先生の 『再会』 追加 三 を記述します。

 「ものが起こってくるというのが未来から起こってくる、可能的なものが現実的になる。過去の方はもののあり方を過去がきめる、もののあり方は運命、それをきめるのが業、現在に重なりあっている。未来の方は、可能性としてあるものが現在となるためには業というものが媒介となる、宿業を縁としてものは現象してくる。自分の存在を考えても、私の存在が私という形をとっているのも業縁によるのである。併し私の存在に於ける存在そのものは無限である。私は無限の可能性をもっている。

 私が今経験するのは一つの経験であるが、他の経験もできるという可能性がある訳です。現実には一つだけが出来て他は永遠に可能性に止まって、われわれが一切を経験しているのでなくして、一切を経験できる可能性をもっているのであるが何かに限定されている。その限定しているものは業、その中にあってある可能性を経験している、われわれは一切のことが出来るのであるが、併しその中に一つだけ出来て他は可能性に止まっている。限定されなかったことは無くなったのでなくして可能性としてある。ものの起こる時間は可能性が現実性となる時間、それが未来から現在となる、ものの起こるのは可能性が現実性になる時間で業の逆である、業の方は過去から現在、現在から未来、可能性を現実性たらしめるものは過去の業縁、未来から現在へという未来は、過去から未来へというような現在に重なってある、現在の業が未だ現れない未来を約束してしまう。業の方は存在するものを存在せしめる条件である、存在の条件を縁というのである。

 それは業の果を受ければ果は消える、支払いを終わる訳である。支払いを終わる中にまた新しく業が作られている、支払いと約束手形の発行が同じ、われわれが生まれて生きることは過去の業に対する支払いである。無限に業の因果が繰り返し反復する、無限に反復する、それを流転というのである。業の因果が無限に繰り返される、われわれの在り方は業縁によってきめられるけれども、あり方によってあらしめられる可能性は現実性と同じものである。たとえば音の可能性が音になって音を聞く現実性になるのだから、可能性も現実性も変わりはない、けれども音のある境遇が変わってくる、m人間とか一々変わる、境遇に於て経験するものはどんな境遇のものも共通、音を経験しても音はなくならん、業は支払えばなくなるけれども、存在は経験すれば経験するほど可能性と現実性が交互的になる、可能性と現実性は円環的になる、存在の存在性は無限のものであるが、無限の存在を業縁によって有限に限定する。併し存在は無限のものである、存在の中にあって存在の運命を決定するものが業縁、業というものが非常に大きい位置をもっている、業の存在の中にある存在の運命を決定するものが業の因縁である。」  (完)

 昭和48年5月1日より文明堂より発刊されました「下総たより 3号」より転載しました。


第三能変 能変差別門 (25) 諸根互用

2012-08-14 16:13:14 | 心の構造について

 「論。若得自在諸根互用。樞要二説。於第一師自有二解。一云五識各各能縁一切諸境皆得自相。無壞根・境過。言離合者。據因位説。不障果位。得自在故 又如第八識雖縁諸境皆得自相。不有壞過。以於果位體有多能。非體轉變爲餘法體故。不得難云見色名爲眼。亦許聞聲等。能造名爲大。色等亦能造。彼體轉異。此是功能。若以色能見。可例色能造。見色眼功能。非是體轉變。然法師意存第二解。若第二師各還自根縁於自相不名互用 要集云。 舊相傳有三師。一云一識通依六根。各取根所得自境。二云一識通縁六境。各依自根。境是共故。劣得通餘。一云一識通依六根通縁六境。未詳決云。根・識不共。境即是共。不欲壞自根・識所行。若一識通依諸根。即壞根・識。故用他境不用他根。今存未詳 今謂有餘。何者境是共取。本自共成 若不欲壞自根・識所行。通依諸根即壞根・識。故用他境不用他根者 今依自根取於餘境。不分離合得假實境。豈不猶有壞根・境失。以餘識・根取餘境 故。既不釋通。應依樞要。」(『了義燈』第五本・十八左。大正43・749b~c)

  • 能造(のうぞう) - 能造・所造の能造。造るものを能造、造られるものを所造という。ここでは四大種が能造、造られる物質、色等が所造。

 (「若し自在を得つるときには、諸根互用するをもって」というは、『樞要』に二の説あり。第一の師に於て自ら二の解有り。一に云く、五識は各々能く一切の諸境を縁じて、皆、自相を得るに、根・境を壊する過無し。離・合と言うは、因位に拠って説く。果位をば障へず。自在を得たるが故に。又、第八識の諸境を縁じて皆、自相を得ると雖も、壊す過有るに非ざるが如し。果の位に於て、体は有るを以てなり。多の能、体いい転変して余の法体と為るに非ず。故に難じて、色を見るを名づけて眼と為す、亦、声等を聞くをも許さば、能造を名づけて大と為すとも、色等も亦、能造なるべしと云うことを得じ。彼は、体、転異しぬ。此れは是れ功能なるをもって、若し色を以て能く見るといわば、色を例して能造なるべし。色を見るは眼の功能なり。是れ体の転変するには非ず。然るに法師の意は第二の解を存せり。若しは第二の師ならば、各還って自根いい自の相を縁ずるを以て、互用とは名づけざるべし。

 (『要集』を破斥する)

 要集に云く、旧の相伝に三の師有り、一に云く、一の識いい通して六根に依って各々根の所得の自境を取る。一に云く、一識いい通じて六境を縁ず。各々自根に依るに境は是れ共せるが故に、劣するを以て余に通ずることを得る。一に云く、一の識いい通じて六根に依って通じて六境を縁ず。

  • 未詳決(義寂 ぎじゃく) - 中国、五代~宋の天台宗の僧。浄光大師と号す。天台中興の祖といわれる。919~987の僧である。

 未詳決(義寂)に云く、根と識と不共なり。境は即ち是れ共なり。自の根と識と所行を壊せんと欲せず。若し一の識いい通じて諸根に依らば即ち、根と識とを壊しぬ。故に他の境を用うれども他の根を用いずという。今(『要集』)、未詳を存すと云えり。今(『了義燈』)、謂ゆる有余なり。何となれば境をば是れ共に取るといえり。本より自ら共に成ぜり。若し自の根と識と所行とに壊せんと欲するにはあらず。通じて諸根に依らば即ち、根と識と壊しぬ。故に他の境をば用いて、他の根をば用いずといわば、

 (破斥) 今、自の根に依って余の境を取るに、離合をば分たず。仮実の境を得る。。豈に猶、根と境とを壊する失有らざらん。余の識と根と余の境を取るを以ての故に。既に釈通せず。『樞要』に依るべし。」)

 「未自在の場合は、眼根はただ色境を縁ずる。一切の境を縁ずる場合に、境によって名を立てれば混乱が起こるが、根によって名を立てれば、混乱が起きぬ。根の自在、未自在は仏法の修道についていう。見道以上とか八地以上とか仏果とかいう。そいう修道の位についていう。我々からいうと日常的世界が未自在である。・・・・・・仏典が自在・未自在を考えるのも意味がある。修道というのもそういう意義をもつ。自覚の眼を開くと、日常性を超えることで無限の豊かな世界が開ける。ものを持つから狭くなるので、喜んで捨てるところに無限に広くなる。その広大な世界を経典は書きとどめたのである。経典は自在位の立場、仏の境界である。論は未自在の立場に立って書いた。学問は未自在の我々を導くから、まず我々の未自在の立場に立って明らかにするのである。」と、安田理深師は教えられています。

 

 


第三能変 能変差別門 (24) 諸根互用 

2012-08-13 20:46:13 | 心の構造について

 『樞要』の説明。

「隨境立名依五色根未自在等者。問一境 多識取。果位但隨根。一根取多境。不可隨根稱 答一識境成多。不可隨境稱。所依根但一。隨根立識名。此義應思。太難 諸根互用者。有二異説。第一師云。實能縁諸境。於中有二義。一義云。一一識體轉用成多。非轉法體。故非受等亦成想等。取像之用一切無遮。不可難以大種爲造。彼轉體故。如第八縁五塵。亦得自在不可難言壞根不壞境等 二義云。恐壞 法相。但取自境皆是實境。所取他境皆是假境。以識用廣非得餘自相。恐眼・耳根得三塵時。若至能取壞根不壞境。若不至能取。壞境不壞根。餘三根取色・聲亦爾。皆有此過故 第二師解云。一一根處遍有諸根各自起用。非以一根得一切境。以諸根用各遍一切故名互用。不爾便成壞法相故。心王亦應有心所用而取別相等。」(『樞要』巻下本・二十八右。大正43・641a)

 (「境に随って名を立てたるは、五色根が未自在なるに依る」等とは

 問。一の境を多の識取ると云う。果の位には但だ根に随ってと云わば、一の根、多境を取る。根に随って称すべからざるや。

 答。一識に境多を成ずるを境に随って称すべからず。所依根但し一なれば、根に随って識の名を立つることは、応に思うべし。太だ難し。

 「諸根互用」とは二の異説有り。第一の師の云く。実に能く諸境を縁ず。中に於て二義有り、

 一義に云く、一一の識体なり。用を転じて多を成す。法体を転ずるには非ず。故に、受等亦想等を成ずと云うには非ず。像を取るの用は一切遮することなし。大種を以て造と為すと難ずべからず。彼は体を転ずるが故に。第八の五塵を縁じて亦自相を得るが如きを。難じて根を壊して境を壊せず等とは言うべからず。

 二義に云く、法相を壊せんかを恐る。但だ自境を取るには皆是れ実境なり。所取の他境は皆是れ仮境なり。識の用広なり、余の自相を得るに非ざるを以て、恐らくは眼・耳根が三塵を得る時に。若しは至って能取は根を壊して境を壊せず。若しは至らず能取は境を壊して根は壊せず。余は三根が色・声を取ることも亦爾なり。皆此過有るが故に。

 第二の師解して云く。一一の根の処に遍ねく諸根有す。各々自ら用を起こす。一根を以て一切の境を得ることには非ず。諸根の用各の一切に遍ぜるを以て、故に互用と名づく。爾らずんば便ち成ず。法相を壊するが故に。心王にも亦心所の用有って別相の等を取るべしと。」)

 「諸根互用」というのは、識自体が自境のみならず他境をも認識することである、と説明されています。「自境を取る」というのは、自境を認識するという意味になります。ですから、諸根互用は自境のみならず、他境をも認識するということになります。ここに問いが出されています。眼識の所依である眼根も、色境のみならず声・香・味・触の他の境も認識する働き(用)を持つようになるのか、それとも、根は諸根互用となっても他境を認識せず、自らの境(例えば、眼根の場合は色境のみという)のみを認識し続けるのかという問題です。答えられるのが、各識が、五境ともを認識するようになることであるといわれています。未自在位の時(随境得名)には、自らの境しか認識しなかったのが、自在位になると他の四境をも認識するようになる、と。「眼は口ほどにものを云う」とかですね、或いは、香道では「匂いを嗅ぐ」とはいわないですね、「匂いを聞く」といいます。五体で一切を感じるわけです。こういうような状況を述べているのですね。論理的には、識が他境を認識するのは根に依るわけですから、もし根が他境を認識することがないならば、識も他境を認識しなくなるであろうと、説かれています。

 尚、『了義燈』にはさらに敷衍してこの問題に答えていますので、次回に考えてみます。


『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 序章 (3)

2012-08-12 17:56:46 | 『阿毘達磨倶舎論』

 『倶舎論』の構成は前回述べましたが、昔から「界二根五世間五、業六随三賢聖(げんじょう)四、智二定破各一半(かくいっぱん)と憶えるといわれています。全部で三十巻です。

 『成唯識論』(以下『論』)に照らしてみますと、『論』では第一巻で、破我・破法をもって、実我・実法は存在しないことを論証しています。

 総じて問う。

 「云何ぞ応に知るべきや、実に外境無くして唯だ内識のみ有りて、外境に似(の)りて生ぜりということを。」(『論』第一・三左)

 略して答える。

 「実我・実法は得可からざるが故に。」

 と。このように実我を破し、実法を破すのは、外道及び小乗諸部派の説を論破し破斥するためです。そして大乗を開くという意味があります。小乗を破斥するときに中心になるのが説一切有部の説です。

 説一切有部は五位七十五法の法体系を説きます。あらゆる事象を七十五種の実体に分け、それを五つに分類しているのです、この分類法が『倶舎論』に説かれています。

 概略しますと、

  •  (1) 色法(十一)、眼・耳・鼻・舌・身の感覚器官と、その対象である色・声・香・味・触の対境、および表示できない実体である無表色の十一種。(「色とは唯だ五根と五境及び無表となり。」)
  •  (2) 心法、心の働きの主体で、心王という。(「識は謂く各了別す、此れを即ち意処と、及び七界と名づく。応に知るべし、六識転ずるを意となす。」)
  •  (3) 心所有法(略して心所という。四十六)。これが大地法(十)・大善地法(十)・大煩悩地法(六)・大不善地法(二)・小煩悩地法(十)・不定地法(八)に分けられています。大とは、どの心王にも必ず遍く倶生するということ、小は常に倶生するとは限らないという意味です。地とは所依をあらわします。心王です。心王を地と名付づけているのです。大地であるところの心王が所有する法が心所といわれる所以です。
  •  (4) 心不相応法(色法でも、心・心所でもない存在のありかた。)で、十四種数えられる。)
  •  (5) 無為法(生滅の変化がなく、はたらきを起こすものがないもので、三種あり。)
 説一切有部によると、実体としての個人というものは存在しない。真に存在するものは、個人を構成しているもろもろのダルマdharmaと呼ばれる要素―その大部分は心理現象である―だけである。個人pudgalaというものは、もろもろのダルマによって仮に構成されている虚構にすぎない。その構成要素は七十五種あり、それは大きく二つに区別される。その一は、つくり出されるもの(有為法)、その二は、つくりだされないもの(無為法)。
(一) 有為法 - 創りだされるものとは、変化するものとなって現われ出る諸要素のこと。
1.色法 - 物質的なもの。場所を占有して他のものを入らせない性質を持っている。
   ①眼根 - 視覚器官
   ②耳根 - 聴覚
   ③鼻根 - 嗅覚
   ④舌根 - 味覚
   ⑤身根 - 触覚。触覚は身体全体にわたって存在するので、身体による器官とする。
   ⑥色境 - いろかたち、眼に対応するもの
   ⑦声境 - 音声、聴覚に対応するもの
   ⑧香境 - 香り、嗅覚に対応するもの
   ⑨味境 - 味、味覚に対応するもの
   ⑩触境 - 触れられるもの、触角に対応するもの
   ⑪無表色 - 表示されることのない物質、感覚器官では知覚されない特殊な物質。善悪の行為が心に潜在的影響を残し、未来に報いを生ずる、そのための媒体となるもの。
2.心法 - 人間の精神作用の中心となる機能。心・意・識は、同一の機能を指す。
3.心所有法 - 心作用。心と結びついている精神作用。心理現象のこと。これらは心と結びついてはいるが、心とは別のダルマであり、それぞれの精神作用が個人を構成する独立の要素となっている。個々の精神作用は心の属性でもないし、また、心の現象でもない。 
 ①大地法 - あまねくゆきわたる心作用、意識のいかなる瞬間にも現存するはたらき。
  (1)受 - 感受の働き。快感・不快感・快でも不快でもないの三種。
  (2)想 - 表象作用。対象の特殊な特徴を把握すること。
  (3)思 - 意志作用。心を起動させる働き。
  (4)触 - 接触作用。感官と対象と心の三つが合すること。根境識の和合。
  (5)欲 -欲望の働き。行為主体が何ものかを欲すること。
  (6)慧 - 知慧。もろもろのダルマを区別して知る知恵。これがやがて解脱をもたらす。
  (7)念 - 記憶。ぼうっとしないではっきり思い続けること。
  (8)作意 - 注意。気をつけること。
  (9)勝解 ー 明確に認めること。対象を確認すること。
  (10)三摩地 ー 精神統一。心の統一作用で、精神を一点に集中し続けること。三昧。
 ②大善地法 ー 心が善である場合に常に現存する心作用。
      
  (1)信 - 心の澄みきって喜びに充ちている状態。教えを説かれたままに認めること。仏教では、信仰が最も重要なものではなくて、信はさとりを得るための入り口なのである。
  (2)勤 ー 勇気。努め励み、善の行為をなすための勇気。
  (3)捨 - 心の平静。心が落ち着いて乱されないこと。
  (4)慚 ー 慚じること。自ら自分を省みて恥じること。
  (5)愧 ー 愧じること。他人の悪行をみて、嫌悪を感じて愧じること。
  (6)無貪 ー 貪りのないこと。
  (7)無瞋 ー 怒らないこと。怒り、憎しみのないこと。
  (8)不害 ー 不傷害。他人を傷つけ、悩まさないこと。
  (9)軽安 ー 軽やかさ。心が軽やかで快適なこと。
  (10)不放逸 - 不怠惰。怠けないで、善い性質を体得しようと努めること。
 ③大煩悩地法 - あまねく煩悩にゆきわたる心作用。煩悩が起こったとき常に現存する心作用。
  (1)無明 - 無知、迷い。知慧の反対、すなわち、迷いの生存の根源。
  (2)放逸 - 怠惰。なおざり。善の実行を怠けること。不怠惰の反対。
  (3)懈怠 - 勇み立たぬこと。勇気のないこと。勇気の反対。
  (4)不信 - 心のにごり汚れていること。信の反対。
  (5)惛沈 - 身心の物憂いこと。善を行なうのに軽やかでないこと。
  (6)掉挙 ー 心が浮つくこと。心が静まらないで軽躁であること。
 ④大不善地法 - 悪心にあまねく存する心作用。善の反対の悪、悪心が起こったときに常に存する心作用。
  (1)無慚 - 慚じないこと。慚じることの反対。
  (2)無愧 - 愧じないこと。愧じることの反対。
 ⑤小煩悩地法 ー 付随的な煩悩にともなって起る心作用。これらの心作用は、悪心および有覆無記心ウブクムキシン(善でも悪でもないが、煩悩に覆われている心)に結びついて起り、それぞれ別々に現われる。
  (1)忿 - いかり。心に憤りを起こすこと。
  (2)覆 - みずからの罪を隠すこと。
  (3)慳 - ものおしみ。他人に教えを授けるのを惜しみ、財を与えることを惜しみ、など。
  (4)嫉 - ねたみ。嫉妬。他人の幸運、繁栄を喜ばないこと。
  (5)悩 - かくたくなに悪事に固執すること。他人の道理にかなった諫言を容れられない。悪事に執着して心身をを悩ます。
  (6)害 - 害すること。この心作用が起ると、他人を殴打し罵ったりする。
  (7)恨 - 恨み。忿りの対象となることを思い起こして怨みを結ぶ。
  (8)誑 - 欺く。だます。
  (9)諂 - 心が曲がっていて、自分をあるがままに顕わさず、偽り、つくろったり、手段を弄したりして、誤魔化すこと。
  (10)憍 - 驕り高ぶること。
 ⑥不定地法 - いずれの心作用とも結合しうる心作用。
   (1)悪作 - 後悔。後で後悔すること。
   (2)睡眠 - 放心させる働き。心をぼおっとさせる働き。
   (3)尋 - 粗雑な思考作用。
   (4)伺 - 微細な思考作用。
   (5)貪 - 快適なものを貪り愛すること。
   (6)瞋 - 嫌悪。不快なものを嫌う。他のものを恨み嫌う。
   (7)慢 - 慢心。自分が高く構えて、自分が他人より優れていると思いなすこと。
   (8)疑 - 疑い。疑うということは、善い場合も悪い場合もある。だから不定。
4.心不相応行法 ー 心と結びつかない要素。物質でもなく、心作用でもない原理(ダルマ)。
   ①得 - もろもろのダルマを身に得させるダルマ。人が修養をして心を清め澄ませるというような善い性質を身に体得する場合には、この得させるという原理が働くと言うのである。
   ②非得 ー 前述と反対。もろもろのダルマを身から離れさせるダルマ。人が善い性質を体得しない時は、この得させないという原理が働いているとする。
   ③同分 - 生きものの同類性。犬なら犬が、同類の生物として生まれ育つのは、そこに、生きものの同類性という原理が働くからと考える。
   ④無想果 - 外道のニルヴァーナ。無想天という境地に生まれること。
   ⑤無想定 - 外道の瞑想法。外道が無想果を得るための瞑想。そこにおいては、心も心の働きも全くなくなる。
   ⑥滅尽定 - 聖者がしばらく休息するために入る無心の精神統一(禅定)。個々では心や心の働きを全く滅し尽くしている。
   ⑦命根 - 生命原理。寿命。生きものがいきているかぎり、そこに生命原理が働いている。それは、体温と意識作用のよりどころとなっている。
   ⑧生 - ⑧から⑪までは、四有為相。生は、ものを生ぜしめる原理。
   ⑨住 - ものをとどまらせる原理。
   ⑩異 -ものを変化させ、衰えさせる原理。
   ⑪滅 - ものを滅びさせる原理。
   ⑫名身 - 以下三つは、言語表現の要素。名身は、名称の集合。概念自体。
   ⑬句身 ー 文章の集合。命題自体。
   ⑭文身 - 音節の集合。字母自体。
(二)無為法 - 創られたものではない原理。変化することのない原理。
   ①虚空無為 - 場所一般。もろもろのダルマが現われるためには、それらに妨げを与えない場所の存在が前提される。
   ②択滅無為 - 正智の明確に知る力による消滅。われわれが正智に達すると、その明確に知る力(簡択力ケンチャクリョク)によって、ひとつひとつのダルマの本性を知ると、その「知る」働きの不思議な力により、個々のダルマが起らなくなる。そうしてすべてのダルマが消滅すると、やがてニルヴァーナに達する。
   ③非択滅無為 ー 明確に知る力によるのではない消滅。あらゆるものごとは因縁によって生ずるのであるが、生ぜしめる縁が欠けると、もろもろのダルマも生じないで滅びてしまう。この消滅そのものを実体視して、こう呼んでいるのである。それは明確に知る力によって消滅するのではないから、「非択滅」とよぶ。簡単にいえば、ものや現象がひとりでになくなることである。(「にほんブログ村 仏教」よりシェアーしました。)
 『論』に説かれます小乗を破す段はやはり『倶舎論』を学んでおかなければならないと思います。この『倶舎論』に説かれます、五位七十五法に対し、この有部の教説を破斥して大乗では五位百法が説かれます。大きく異なるのは有部は心王は一の識しか認めていませんが、唯識は八識別体の並起を承認しているところです。

 

 


第三能変 能変差別門 (23) 随境得名

2012-08-11 21:30:41 | 心の構造について

「論。此後隨境至無相濫失 述曰。下料簡也。隨境立名。意名可爾。然前五識依五色根未自在説。薩遮尼乾子經是此論證。正法念經違此應會。蛇眼聞聲是正量部。非大乘義。大乘不然。故不違也。若得自在根互用故何名自在。如佛地論轉五識時。總有二 解。或從初地即名自在。無漏五識現在前故。或成佛時成所作識彼方起故。然有別義入地菩薩無漏五識雖不現前。得後得智引生五識。於淨土等中現神變事。何妨五識一一通縁一切異境界。不思議力所引生故 或有別義。七地已前由有煩惱現行不絶。未殊勝故不名自在。入八地已去煩惱不行。純無漏起。引生五識可得互縁方名自在。」(『述記』第五末・五十左。大正43・417a)

 この『述記』に、諸根互用が起こるとされる自在位について、何を以て自在位といえるのかという問題に答えています。二解が示され、別義として二通りの説が出されています。都合四説ですね。

 (「述して曰く。下は料簡なり。

 (随境得名の位を釈す) 境に随って名を立つるに、意の名は爾る可し。然るに前五識は五色根の未自在なるに依って説く。薩遮尼乾子経(さっしゃにけんしきょう。真聖p277、『信巻』に大乗の五逆について引用がされています。)是れ此の論の証なり。正法念経は此れに違す。応に会すべし。虵眼(虵は蛇の俗字)声を聞くとは是れ正量部なり。大乗の義に非ず。大乗は然らず。故に違せざるなり。

 (随根得名の位を釈す) 若し自在を得るときは根互用するが故に。何をか自在と名づくる。『仏地論』(第三巻)の如き、五識を転ずる時と云う。総じて二解有り。

  • (1) 或は初地に従って即ち自在と名づく。無漏の五識現在前するが故に。(初地以上を自在位と名づける説。)
  • (2) 或は成仏の時に成所作の識、彼れ(仏果)方に起こるが故に。(仏果を自在位と名づけるという説。)

 然るに別義有り。(『仏地論』第六巻)

  • (3) 入地の菩薩には無漏の五識現前せずと雖も、(第六識の)後得智五識を引生するを得。浄土等の中に於て神変の事を現ず。何の妨げかある五識一一通じて一切の異の境界を縁ずることを、不思議力に引生せざるが故に(第六識が無漏を得て後得智を得るということ)。(無漏の五識は起こらないが初地以上を自在位と名づける説。)

 或は別義有り。

  • (4) 七地已前には煩悩有って現行して絶えざるに由る。殊勝にあらざるが故に自在と名づけず。八地に入る已去に煩悩行ぜずして純無漏起こるを以て、五識を引生して互に縁ずることを得べきをもって方に自在と名づく。(八地以上を自在位と名づける説。)

 以上が『述記』に説明されています諸根互用の四説ですが、(1)の説は不正義とされています。なぜなら初地では、五識はいまだ無漏にならないからです。そして(2)・(3)・(4)は正義として承認されているのですが、『述記』の(4)に解釈されていますように、七地已前は煩悩があり、現行して絶えないので自在というわけにはいかない、自在は八地以上であるという主旨の旨が説かれていますが、本義は(2)の『仏地論』に説かれている仏位をもって自在位とする、と述べています。

 尚、「虵眼(虵は蛇の俗字)声を聞く」ということについて『演秘』には、「蛇眼声を聞く等とは、彼の経(『正法念経』巻六十四)の六十四を按ずるに、瞿陀尼(ぐだに。四大州のひとつで、そこの住民は牛を貿易するから、意訳して牛貨州という。)の人は眼識をもって声を聞くこと、閻浮提の中の蛇虺(へびとまむし)の類の眼中に声を聞くが如く、瞿陀尼の人も亦復是の如くにして、隔つる障礙の如くに衆の音声を聞くが如し。衆の色像を見ることも、又復是の如し。法勝るを以ての故なりと云えり。」と説明しています。

 次回は『樞要』・『了義燈』の説を紹介します。