唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (26) 諸根互用・相違を会通

2012-08-15 17:35:22 | 心の構造について

 能変差別門については2010年4月5日~4月14日に概略を述べています。重複しますが、概略を参考にしながら学びます。

 相違を会通 (諸根互用が起こるとされる自在位に三説出されていましたが、諸根互用が起こるのは、仏果のみに限るとされる『荘厳論』の所説と相違する点について会通します。)

 「荘厳論に、如来の五根は一一皆な五境の於に転ずと説けるは、且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」(『論』第五・十七右)

 (『荘厳論』(大正31・605a)に、「如来の五根は、一々すべて五境に対して転じる」と説かれるのは、しばらく麤顕(そけん)と同類の境によって説くのである。)

 『論』に諸根互用とは「一根が識を発して一切の境を縁じる」と述べられていました。しかし『荘厳論』には「如来の五根は、一々すべて五境に対して転じる」と説かれており、即ち、所ね互用は「如来」と限定されているわけです。前節で『述記』が説明していましたが、諸根互用が起こるのは、初地以上とする説・八地以上とする説・仏果とする説として、いずれも承認されていることから相違が生じているわけです。また、「五境の於に転ず」と説かれているのは、『論』の所説と相違するのではないのかという問いに対して、そうではないと会通しているのです。

 『述記』の説明を先ず伺うことにします。

 「論。莊嚴論説至同類境説 述曰。彼第二卷中菩瑜琁薩品説。此能唯在成所作中故唯佛地。或即初地。或入八地。此是本義。彼論一 依麁顯。二依同類。實縁一切皆無障礙爲縁如不。西方二説。一云許縁。佛智通故。二云不縁。名成所作縁事智故。准下論文此解爲勝。然甚難知。如何諸根説名互用證此識義。一根發識縁一切境。擧所依根顯能依識 如何互用。了色名眼不至能取。法相所談。了觸名眼令至能取。豈非雜亂 名字於法非即銓定。是客名故。了色名眼。且依小聖・異生身説。若據佛位 了觸亦名眼。此文爲證。二得名中。但隨第一依根受稱。通在自在位無相濫失。如樞要説。」(『述記』第五末・五十一右。大正43・417b)

 (「述して曰く。彼(『瑜伽論』)の第三巻の中の菩提品に説く。此の能は唯だ成所作の中にのみ在り。故に唯『仏地』のみにあり。或いは即ち初地にありといへり。或いは八地に入る。此は是れ本義なり。彼の論は一に麤顕なるに依る、ニには同類なるに依る。実は一切を縁ずるに皆障碍なし。

 (問)如を縁ずと為んや不や。

 西方に二説あり。一に云く、縁ずと許す、仏智は通ずる故に。二に云く、縁ぜず、成所作と名づくるをもって事の縁ずる智なるが故に。下の論文に准ぜば此の解を勝と為す。然るに甚だ知り難し。

 (問)如何ぞ諸根を説いて互用と名づくをもって此の識の義を証するや。

 一根、識を発して一切の境を縁ずるをもって、所依の根を挙げて能依の識を顕す。

 (問)如何ぞ互用するや。色を了するを眼と名づけ、至らざるを能く取ると云うは法相の談ずる所なり。触を了するを眼と名づけば至って能く取らしめば豈雑乱するに非ずや。

 名字は法に法に於て即ち銓(はか)り定むるものに非ず。是れ客名なるが故に。色を了するを眼と名づくるは且く小聖と異生との身(未自在位)に依って説く。若し仏位に拠らば触を了するを亦眼と名づく。此の文を証と為す。

 二の得名の中、但だ第一に随う、根に依って称を受けること、通じて自在位に在り。相濫ずる失無し。『樞要』に説くが如し。」)

         ―      ・     ―

 『荘厳論』に説かれる諸根互用の記述に対する会通がこの「且く、麤顕(そけん)と同類との境に依って説く。」という点です。

 「彼(『瑜伽論』)の第三巻の中の菩提品の説なり。此の能は唯、成所作の中にのみ在り。故に唯『仏地』のみあり。或いは即ち初地にありといへり。或いは八地に入る。此れ(『成唯識論』)は是、本義なり。彼の論は一には麤顕(五境)なるに依るといい、ニには同類なるに依っていう。実は一切を縁ずるに皆障碍なし。」(『述記』)と。

 「論(『成唯識論』)に、荘厳論より同類との境の故に至るは、彼の論(『荘厳経論』巻三・別転変化を説く偈とその釈)の第三の偈を案ずるに、是の如き五根転じて変化して増上を得、諸義所作に遍ずること、功徳千二百なりと云えり。」(『演秘』)

 『荘厳論』引用の偈は五根を転じて変化することを顕していると説明しています。

  •  問題は前説に「一根が識を発して一切の境を縁じる」と述べられていたことです。『荘厳論』には「如来の五根は一々すべて五境に対して活動する」と云われていることはどうしてかということです。「如来の」と説かれるのは仏果でなければ諸根互用しないので、あえて菩薩の名をあげず、「如来の」と説かれるので、問題は無いとしています。「疏に、或いは即ち初地というより此れは是れ本義なりに至るは、仏地論の中には義に本(義)と別(義)と有り。本を挙げて別を簡べり。」と。本義と別義がある中の本義ということです。
  •  「しばらく麤顕と同類の境によって説く」といわれますように、略して五境で諸根互用を述べて会通しているのです。何によって略しているのかは「麤顕と同類」の二点からなのです。広義の立場は一切境を縁ずるのですが、ここでは法境が除かれて説かれているのです。『荘厳論』では五境を麤顕とする、狭い立場から五境に対する五識の諸根互用を表しています。「同類」は五境は五根の同類と云う事です。五根では、法境を認識することは出来ませんから同類ではないのです。「如来の五根は」といわれていますからその五根の同類は五境ということで述べられているわけです。一切境の諸根互用を否定しているわけではありません。
  •  「成所作の中にのみ在り」。成所作は、成すべきことを実行するということですが、ここでは智慧ですね。成所作智(じょうしょさち)で前五識を転じて得られる智慧のことで、「無漏の眼識乃至身識の五は皆神通変化の所作をなすこと勝れたり、是の故に成所作智となづく。」といわれています。真実は、「一根が識を発して一切の境を縁じる」ことで、一切境について諸根互用であるというのです。 

『下総たより』 第三号 『再会』  追加 Ⅲ

2012-08-15 12:38:43 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 安田理深先生の 『再会』 追加 三 を記述します。

 「ものが起こってくるというのが未来から起こってくる、可能的なものが現実的になる。過去の方はもののあり方を過去がきめる、もののあり方は運命、それをきめるのが業、現在に重なりあっている。未来の方は、可能性としてあるものが現在となるためには業というものが媒介となる、宿業を縁としてものは現象してくる。自分の存在を考えても、私の存在が私という形をとっているのも業縁によるのである。併し私の存在に於ける存在そのものは無限である。私は無限の可能性をもっている。

 私が今経験するのは一つの経験であるが、他の経験もできるという可能性がある訳です。現実には一つだけが出来て他は永遠に可能性に止まって、われわれが一切を経験しているのでなくして、一切を経験できる可能性をもっているのであるが何かに限定されている。その限定しているものは業、その中にあってある可能性を経験している、われわれは一切のことが出来るのであるが、併しその中に一つだけ出来て他は可能性に止まっている。限定されなかったことは無くなったのでなくして可能性としてある。ものの起こる時間は可能性が現実性となる時間、それが未来から現在となる、ものの起こるのは可能性が現実性になる時間で業の逆である、業の方は過去から現在、現在から未来、可能性を現実性たらしめるものは過去の業縁、未来から現在へという未来は、過去から未来へというような現在に重なってある、現在の業が未だ現れない未来を約束してしまう。業の方は存在するものを存在せしめる条件である、存在の条件を縁というのである。

 それは業の果を受ければ果は消える、支払いを終わる訳である。支払いを終わる中にまた新しく業が作られている、支払いと約束手形の発行が同じ、われわれが生まれて生きることは過去の業に対する支払いである。無限に業の因果が繰り返し反復する、無限に反復する、それを流転というのである。業の因果が無限に繰り返される、われわれの在り方は業縁によってきめられるけれども、あり方によってあらしめられる可能性は現実性と同じものである。たとえば音の可能性が音になって音を聞く現実性になるのだから、可能性も現実性も変わりはない、けれども音のある境遇が変わってくる、m人間とか一々変わる、境遇に於て経験するものはどんな境遇のものも共通、音を経験しても音はなくならん、業は支払えばなくなるけれども、存在は経験すれば経験するほど可能性と現実性が交互的になる、可能性と現実性は円環的になる、存在の存在性は無限のものであるが、無限の存在を業縁によって有限に限定する。併し存在は無限のものである、存在の中にあって存在の運命を決定するものが業縁、業というものが非常に大きい位置をもっている、業の存在の中にある存在の運命を決定するものが業の因縁である。」  (完)

 昭和48年5月1日より文明堂より発刊されました「下総たより 3号」より転載しました。