「論。若得自在諸根互用。樞要二説。於第一師自有二解。一云五識各各能縁一切諸境皆得自相。無壞根・境過。言離合者。據因位説。不障果位。得自在故 又如第八識雖縁諸境皆得自相。不有壞過。以於果位體有多能。非體轉變爲餘法體故。不得難云見色名爲眼。亦許聞聲等。能造名爲大。色等亦能造。彼體轉異。此是功能。若以色能見。可例色能造。見色眼功能。非是體轉變。然法師意存第二解。若第二師各還自根縁於自相不名互用 要集云。 舊相傳有三師。一云一識通依六根。各取根所得自境。二云一識通縁六境。各依自根。境是共故。劣得通餘。一云一識通依六根通縁六境。未詳決云。根・識不共。境即是共。不欲壞自根・識所行。若一識通依諸根。即壞根・識。故用他境不用他根。今存未詳 今謂有餘。何者境是共取。本自共成 若不欲壞自根・識所行。通依諸根即壞根・識。故用他境不用他根者 今依自根取於餘境。不分離合得假實境。豈不猶有壞根・境失。以餘識・根取餘境 故。既不釋通。應依樞要。」(『了義燈』第五本・十八左。大正43・749b~c)
- 能造(のうぞう) - 能造・所造の能造。造るものを能造、造られるものを所造という。ここでは四大種が能造、造られる物質、色等が所造。
(「若し自在を得つるときには、諸根互用するをもって」というは、『樞要』に二の説あり。第一の師に於て自ら二の解有り。一に云く、五識は各々能く一切の諸境を縁じて、皆、自相を得るに、根・境を壊する過無し。離・合と言うは、因位に拠って説く。果位をば障へず。自在を得たるが故に。又、第八識の諸境を縁じて皆、自相を得ると雖も、壊す過有るに非ざるが如し。果の位に於て、体は有るを以てなり。多の能、体いい転変して余の法体と為るに非ず。故に難じて、色を見るを名づけて眼と為す、亦、声等を聞くをも許さば、能造を名づけて大と為すとも、色等も亦、能造なるべしと云うことを得じ。彼は、体、転異しぬ。此れは是れ功能なるをもって、若し色を以て能く見るといわば、色を例して能造なるべし。色を見るは眼の功能なり。是れ体の転変するには非ず。然るに法師の意は第二の解を存せり。若しは第二の師ならば、各還って自根いい自の相を縁ずるを以て、互用とは名づけざるべし。
(『要集』を破斥する)
要集に云く、旧の相伝に三の師有り、一に云く、一の識いい通して六根に依って各々根の所得の自境を取る。一に云く、一識いい通じて六境を縁ず。各々自根に依るに境は是れ共せるが故に、劣するを以て余に通ずることを得る。一に云く、一の識いい通じて六根に依って通じて六境を縁ず。
- 未詳決(義寂 ぎじゃく) - 中国、五代~宋の天台宗の僧。浄光大師と号す。天台中興の祖といわれる。919~987の僧である。
未詳決(義寂)に云く、根と識と不共なり。境は即ち是れ共なり。自の根と識と所行を壊せんと欲せず。若し一の識いい通じて諸根に依らば即ち、根と識とを壊しぬ。故に他の境を用うれども他の根を用いずという。今(『要集』)、未詳を存すと云えり。今(『了義燈』)、謂ゆる有余なり。何となれば境をば是れ共に取るといえり。本より自ら共に成ぜり。若し自の根と識と所行とに壊せんと欲するにはあらず。通じて諸根に依らば即ち、根と識と壊しぬ。故に他の境をば用いて、他の根をば用いずといわば、
(破斥) 今、自の根に依って余の境を取るに、離合をば分たず。仮実の境を得る。。豈に猶、根と境とを壊する失有らざらん。余の識と根と余の境を取るを以ての故に。既に釈通せず。『樞要』に依るべし。」)
「未自在の場合は、眼根はただ色境を縁ずる。一切の境を縁ずる場合に、境によって名を立てれば混乱が起こるが、根によって名を立てれば、混乱が起きぬ。根の自在、未自在は仏法の修道についていう。見道以上とか八地以上とか仏果とかいう。そいう修道の位についていう。我々からいうと日常的世界が未自在である。・・・・・・仏典が自在・未自在を考えるのも意味がある。修道というのもそういう意義をもつ。自覚の眼を開くと、日常性を超えることで無限の豊かな世界が開ける。ものを持つから狭くなるので、喜んで捨てるところに無限に広くなる。その広大な世界を経典は書きとどめたのである。経典は自在位の立場、仏の境界である。論は未自在の立場に立って書いた。学問は未自在の我々を導くから、まず我々の未自在の立場に立って明らかにするのである。」と、安田理深師は教えられています。