「論。此後隨境至無相濫失 述曰。下料簡也。隨境立名。意名可爾。然前五識依五色根未自在説。薩遮尼乾子經是此論證。正法念經違此應會。蛇眼聞聲是正量部。非大乘義。大乘不然。故不違也。若得自在根互用故何名自在。如佛地論轉五識時。總有二 解。或從初地即名自在。無漏五識現在前故。或成佛時成所作識彼方起故。然有別義入地菩薩無漏五識雖不現前。得後得智引生五識。於淨土等中現神變事。何妨五識一一通縁一切異境界。不思議力所引生故 或有別義。七地已前由有煩惱現行不絶。未殊勝故不名自在。入八地已去煩惱不行。純無漏起。引生五識可得互縁方名自在。」(『述記』第五末・五十左。大正43・417a)
この『述記』に、諸根互用が起こるとされる自在位について、何を以て自在位といえるのかという問題に答えています。二解が示され、別義として二通りの説が出されています。都合四説ですね。
(「述して曰く。下は料簡なり。
(随境得名の位を釈す) 境に随って名を立つるに、意の名は爾る可し。然るに前五識は五色根の未自在なるに依って説く。薩遮尼乾子経(さっしゃにけんしきょう。真聖p277、『信巻』に大乗の五逆について引用がされています。)是れ此の論の証なり。正法念経は此れに違す。応に会すべし。虵眼(虵は蛇の俗字)声を聞くとは是れ正量部なり。大乗の義に非ず。大乗は然らず。故に違せざるなり。
(随根得名の位を釈す) 若し自在を得るときは根互用するが故に。何をか自在と名づくる。『仏地論』(第三巻)の如き、五識を転ずる時と云う。総じて二解有り。
- (1) 或は初地に従って即ち自在と名づく。無漏の五識現在前するが故に。(初地以上を自在位と名づける説。)
- (2) 或は成仏の時に成所作の識、彼れ(仏果)方に起こるが故に。(仏果を自在位と名づけるという説。)
然るに別義有り。(『仏地論』第六巻)
- (3) 入地の菩薩には無漏の五識現前せずと雖も、(第六識の)後得智五識を引生するを得。浄土等の中に於て神変の事を現ず。何の妨げかある五識一一通じて一切の異の境界を縁ずることを、不思議力に引生せざるが故に(第六識が無漏を得て後得智を得るということ)。(無漏の五識は起こらないが初地以上を自在位と名づける説。)
或は別義有り。
- (4) 七地已前には煩悩有って現行して絶えざるに由る。殊勝にあらざるが故に自在と名づけず。八地に入る已去に煩悩行ぜずして純無漏起こるを以て、五識を引生して互に縁ずることを得べきをもって方に自在と名づく。(八地以上を自在位と名づける説。)
以上が『述記』に説明されています諸根互用の四説ですが、(1)の説は不正義とされています。なぜなら初地では、五識はいまだ無漏にならないからです。そして(2)・(3)・(4)は正義として承認されているのですが、『述記』の(4)に解釈されていますように、七地已前は煩悩があり、現行して絶えないので自在というわけにはいかない、自在は八地以上であるという主旨の旨が説かれていますが、本義は(2)の『仏地論』に説かれている仏位をもって自在位とする、と述べています。
尚、「虵眼(虵は蛇の俗字)声を聞く」ということについて『演秘』には、「蛇眼声を聞く等とは、彼の経(『正法念経』巻六十四)の六十四を按ずるに、瞿陀尼(ぐだに。四大州のひとつで、そこの住民は牛を貿易するから、意訳して牛貨州という。)の人は眼識をもって声を聞くこと、閻浮提の中の蛇虺(へびとまむし)の類の眼中に声を聞くが如く、瞿陀尼の人も亦復是の如くにして、隔つる障礙の如くに衆の音声を聞くが如し。衆の色像を見ることも、又復是の如し。法勝るを以ての故なりと云えり。」と説明しています。
次回は『樞要』・『了義燈』の説を紹介します。