唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『阿毘達磨倶舎論』に学ぶ。 本頌 (1)  題号

2012-08-19 12:25:28 | 『阿毘達磨倶舎論』

 阿毘達磨倶舎論本頌

 「阿毘達磨倶舍論本頌 説一切有部 世親菩薩造 三藏法師玄奘奉 詔譯」 

 「分別界品第一四十四頌」(大正毘曇部29・310c)

 (『阿毘達磨倶舍論』本頌 説一切有部 世親菩薩造 (唐の)三蔵法師玄奘詔を奉って譯す。)

 初めに選号と訳号が示されています。『倶舎論』本頌の著者は世親菩薩で、訳者は唐の玄奘三蔵であることであり、詔を奉って訳したと述べられてあります。

 「分別界品第一」に四十四頌ある。『倶舎論』九品の中の第一が界品(がんほん)で、主に十八界について一切諸法を論述されています。十八界を分別し説明するという意味で、分別界品と名づけられます。

 ダルマの体系 (前序)

 「分別界品第一 諸一切種諸冥滅 拔衆生出生死泥 敬禮如是如理師 對法藏論我當説」(大正29・1a)

 (諸の一切種と諸との冥を滅し、衆生を抜いて生死の泥(でい)を出でしむ。是の如き如理の師を敬禮(きょうらい)す。対法蔵論、我れ當に説くべし。)

 『倶舎論』巻頭に世親は、この論を造る主旨を述べています。「抜苦」の為である、と。輪廻の泥沼から衆生を救いだすために、この論を造るのであるということですね。

 生死泥は生死大海ともいいあらわします。輪廻転生することを譬えていわれているのです。「如理の師」とは、理に叶った方で、三徳(智徳・断徳・恩徳)を兼ね備えた方、仏・如来のことです。智徳とは智に備わった徳で、智には煩悩を断ずる力があるとされます。断徳は、煩悩の断じられた功徳で、恩徳は衆生済度の利他の功徳です。仏にはこの三徳が備わっているということです。そしてこの三徳の備わった人に帰敬することを示しています。

  • 智徳 - 一切種冥滅
  • 断徳 - 諸冥滅
  • 恩徳 - 抜衆生等

 これで仏の三徳を明らかにし、後に「敬禮如是等」全体で帰敬序になり、次の一句で発起序(「対法蔵論等」)が述べられます。

 上山春平氏は「『倶舎論』の最初の二章をなす界品と根品に述べられているダルマの体系は、作られる過程に即して発生的にとらえることのできる有為の総体を、すでに作られた所与のものとして前提しながら、それを構成要素に分解するという、いわば論理的な分析の所産にほかならない。・・・・・・(業品・随眠品の冒頭の言葉の)こうした心理的分析の視点を媒介することなしに、いきなり界品と根品で展開されているような論理的分析に接すると、いたずらに煩瑣なダルマの定義や分類に眼をうばわれてしまって、仏教本来の実践的認識とダルマの分析との関係を見失ってしまうおそれがあるのではないかと思う。」と『倶舎論』に接するときの注意点を示唆されています。

 輪廻の連鎖は人間そのものを明らかにする手がかりになるかと思われます。輪廻は三界・五(六)趣・四生とに尽きるわけです。これが迷いの境界になります。天界といえども迷いの境界から抜け出すものではないということです。では何故このような輪廻の在り方をするのか、とう問題にアビダルマの論師たちは一様にそれは有情の行為(カルマ・業)による、と。

 業とは何であるのかが問われることになりますが、一般的には因果業報という捉え方をしているようです、いわゆる「善因善果」・「悪因悪果」あるいは「自業自得」ということです。しかし、こういうとらえかたは正しいのでしょうか。アビダルマの論師たちは「否」という答え方をしています。厳密には「善因楽果」であり、「悪因苦果」である、と。善因は善の果を報い、悪因は悪の果を報いるという言い方はできないということなのです。これはいたずらな宿命論・運命論に陥るわけです。過去の行為が現在の自己の境遇を決定し、動かすことができない、というあきらめの人生観になるのです。この思想には今の自己の境遇を引き受けて「悪を転じて徳と為す」という信念はありませんね、そして今の境遇は未来の自己の境遇を決定するものであるという考え方はありません。「自己とは何」と考える時に、善導大師は「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と教えておられます。自分がこの世界に生まれたのは自分の責任であるということです。外に原因はないということです、縁になることはあっても、主体的には自分が因である、これが「自己とは」を考えていく時の鍵になると思いますね。

 少し横道にはずれましたが、本論に戻ります。次に題号が示されます。

 「淨慧隨行名對法 及能得此諸慧論 攝彼勝義依彼故 此立對法倶舍名」

 (淨慧と随行とを対法と名づく。及び能く此を得る諸の慧と論となり。彼の勝義を摂すると、彼に依るとの故に、此に対法倶舎の名を立つ。)

 前節の「対法蔵」は阿毘を対、達磨を法、倶舎を蔵と訳し、その論であるということです。淨慧は無漏の慧のことで、それに随って一処に起こる心・心所です。淨慧随行を対法、阿毘達磨と訳しています。倶舎を蔵と訳していますが、蔵に二義あるといわれています。一には包含の義、二には所依の義です。蔵の中に大切なもの(発智六足等)が摂められ、それを所依の蔵としているという意味です。「摂彼勝義」は包含の義をあらわし、「依彼」は所依の義をあらわしています。そしてこのに義に依って、『対法蔵論』或いは、「阿毘達磨倶舎論』と名づけられているのです。

 「若離擇法定無餘 能滅諸惑勝方便 由惑世間漂有海 因此傳佛説對法」(大正29・311a)

 (若し擇法(ちゃくほう)を離れては、定んで余の能く諸惑を滅する勝方便なし。惑に由って世間は有海に漂う。此れに因って仏は対法を説くと伝う。)

 対法はどういう意味で何故説くのか、誰が先に対法を説いたのかということについて答えています。

 擇法は無漏の慧のことで、世間は惑に依って生死大海に浮沈している、無漏の慧を離れては諸々の惑を滅する方法はないことを示しています。そこで釈尊は対法を説かれたのであると伝えられている、と説明しています。

 次回は業と輪廻について「諸法仮実論」を参考に考えていきます。