唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 ・ 第四門 三性門 その(1)

2012-08-30 23:03:01 | 心の構造について

 2010年4月22日のブログより

 「第三能変の九門の中の第四門にあたります。第一は六識得名・第二は自性・第三は行相で第四で三性門(三性分別)に入ります。三性とは善・不善(悪)・無記(倶非)のことです。この三性については以下説明をしていきますが、要点だけ述べますと、「善」については「能く此世・他世のために順益するが故に名づかて善と為す」人未来際に亘って順益を為すことを善といい、為さないことを不善と云うのですね。「悪趣の苦果は此世には能く違損を為すと、他世に於いてするには非らず。故に不善に非ず。」とい云い、人天の楽果や悪趣の苦果は此世・他世を問わず善・不善の立場からは倶非なるものになるわけです。六転識との関係では善の心所と相応する識であれば善に摂められ、不善の心所と相応する識であれば不善に摂められると云われています。ここに問題が提起され『論』および『述記』に詳しく説かれています。

 4月23日のブログより

 第四の三性門を理解するのに初めに問いを寄せ、後に問いに依って答える。 

 「此の六転識は何の性にか摂むるや」(『論』第五・十七左)

 (この六転識は善・不善・無記の三性の中のいずれの性に摂められるのであろうか。)という問いです。

 「然るに(『論』第ニ巻)前の第八識には心・心所を解きおわって性は無覆無記と言う。今この六転識は何の性になるのであろうか、ということは識を解してその性を明らかにするのである。」その答えが「謂く善と不善と倶非との性に摂む」と云われるのです。第ニ能変の下には心・心所を解き終わって三性門を分別しているが、今この段は心王を説き終わって心所相応門の前にこの三性門が置かれているのは何故なのか、という問いなのです。「第八識の三性門は心王と心所とを説き終わって後にこれを説くのであり、第二能変も亦同じである。第三能変は心王を説き終わって後に三性門が置かれている。心所を後にて、先に三性を説くのにニの解釈がある。一つは初能変の時は心心所の法はその性は必ず同なるを顕すのであって、心所相応門の後に三性門を説くのである。第三能変の時は心王の性に従がって心所もその性必定する理由を顕さんとして心所相応門の前に三性門を説くのである。二つには初能変・第二能変は心王も心所もその性必同である。依って心心所を説き終わって後に三性門が置かれるのであり、第三能変は心王は三性に通じるが、心所はそうではない。どういう事かと云うと善位の心所は善に限り、煩悩は染汚の性に限るのである。そうであるので心所相応門の前に三性門を説くのである。(『泉鈔』取意)

 「謂く、善と不善と倶非との性に摂む。」(『論』第五・十七左)

 (六識は善・」不善・無記との三つともの性に通じるのである。)

 「此れは頌を挙げて答えるなり。即ち六識は並びに三性に通ずることを顕す」(『述記これは何を言おうとしているのかと云いますと、六識は善・不善・無記のいずれの性に定まっているのではなく、いずれの性にもなり得るということなのです。これは初能変が無覆無記・第二能変が有覆無記と定まっているのとは大きく異なる点であることに注意が必要です。六識は三性に通じるという事は十一の善心所(信・慚・愧・無貪・無瞋・無癡・勤・軽安・不放逸・行捨・不害)と相応する位は善であり、十の不善の心所(無慚・無愧・瞋・忿・恨・覆・悩・嫉・慳・害)と相応する位は不善であるわけです。そしていずれの心所とも相応しない時は無記の六識なのです。古い論議の中に「凡そ性類門は思の心所の能なり」と云われていまして、「先ず三性の造作は思なり」、ということはよくよく考えなければならないことです。「思の心所は心を善にも悪のも無記にも作りなす心なり。」といわれ、心の造作、意の働きを意味します。心を動かすはたらきですね。 次は三性について個別に説明がされています。三段にわかれて説かれます。

  1. 頌の文を説明する。
  2. 三性の同異を述べる。
  3. 果位は、三性中のいずれの性に摂まるのかを説明する。
  4.