教を引用して相違を会通。
「仏地経に説かく、成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の化を起こし、四記の等きを作すという。若し遍縁ならずんば、此の能無からんが故に。」(『論』第五・十七右)
(『仏地経』(大正26・318b)には、次のように説かれている。成所作智は有情の心行の差別を決択し、三業の教化を起こして、四記などを行う。
もし遍縁がないならば、この力はないであろう。)
- 成所作智 - 成所作は、なすべきことをなしおいえること。行為を完成させること、成所作智はその作すべきことを成就する智慧。一切の衆生を救済するために、あらゆる場所に変化身を現じる智慧。
- 心行 - 有情の心のはたらき。
- 三業の化 - 三業の教化である身化・語化・意化のこと。
- 四記 - 質問に対する四つの答え方。一向記・分別記・反問記・捨置記の四つ。
- 一向記 - 問いに対しそのまま肯定し答える方法。
- 分別記 - ある質問に対していくつかの観点から分けて(分析判断して認否を行う)答えること。
- 反問記 - 相手の質問に対して、まず問いかえして、その後に答える方法。
- 捨置記(しゃちき) - 答えるに足らない問い、答えるべきではない問いに対しての対応で、答えないことで対応するもの。
- 遍縁 - 遍く一切の対象を縁じること。
『仏地経論』に、「成所作智」とは、「能く遍く一切世界に於て応化する所に随って応に有情を熟す」・「種々無量無数不可思議の仏変化事を示現し方便して一切の有情を利楽し常に間断無し」と述べられ、『仏地経』には「妙生よ、譬へば衆生等の身業は勤励す。其によって諸の衆生は農業と商業と王の役人等を趣求するが如く、その如く諸の如来の成所作智は勤励す。その身化業によって諸の如来は、衆生の一切の業と工巧処の傲・慢等を如来の業と工巧処の一切を示すのみにて摧伏して、又、かの方便善巧によって衆生等を教の中に帰向せしめ、成熟せしめ、解脱せしむるなり。」と説明されています。尚、『仏地経論』巻第六(大正26・318b)に詳細が述べられています。
「成所作智とは、諸如来の化身なり。其は又、三種にして、身化と語化と意化となり。その中、身化とは三種にして、神通示現と生示現と業異熟示現となり。・・・云云」
身化に三種・語化に三種・意化に四種あり、意化の四種には決択意化・造作意化・発起意化・領受意化がある。本文に述べられている「決択有情心行差別」とあるのは、この中の決択意化を指し、「意化は四種なり。決択を為すとは、衆生の心行を決する因相あるが故なり。」と、即ち、成所作智が衆生のこころの働きを見極めて、善巧方便し、衆生の疑惑を断ち、利益を与えて済度することであり、具体的には八万四千の法門を開き説くことです。
「作四記等」は、領受意化の四記を指します。「領受を為すというについて、領受とは、楽と苦とを正しく受容するなり。その因相あるが故に領受を為すなり。成所作智は実に、四問記の義を身に感受するの因相有るが故に意化の業を身に感受するなり。・・・」
『論』の主旨は、仏に「有情の心行の差別」がわかるのは、これは仏の成所作智(前五識が転じて得られた無漏智)が縁じているからであり、五境のみならず、心など一切の境を縁じて諸根互用をしている証拠であると述べているのです。遍縁がなかったならば、教化活動は不可能となるということを示唆しています。
ですから、教化という問題は偏に仏にのみ可能ということなのです。私たちにとって教化者意識というものは厳に慎まなければなりません。 (この項つづきます)