次は、「四記の等(ごと)きを作(な)すという。」と述べられています。この四記は意化の中の領受意化を指しています。領受意化の四記(四記答)をもって有情の問いに対して答え導いていくわけです。それが成所作智の具体的な働きなのです。
「衆生等は楽と苦とを各々領受を為すが如く、その如く諸の如来の成所作智は領受を為す。この意化業によって諸の如来は一向と分別と反問と置答とに於て回答すること等に応ずるが如く、回答すべき為に過去と未来と現在の諸義の領受を為すなり。」(『仏地経』)
如来の成所作智と衆生の迷妄は対応しているのです。衆生の迷妄に随って如来の成所作智は働いているのですね。
「弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選びて功徳の宝を施することをいたす。」(『教行信証』教分類)
と、親鸞聖人は明らかにされました。曽我量深師は「如来我となりて我を救いたまう」と了解されています。
如来の成所作智の働きがあるからこそ、衆生の心行の差異が分かるのです。これが心など一切の境を縁じて諸根互用している証拠としているのです。若しこのような遍縁がなかったならば、衆生の教化はあり得ないということを述べています。
「領受化の中に四記等を作す。謂く、一向記と分別記と返問記と応置記となり。此れが中に復た人・法不同なること有り。別抄(『義林章』七本)の中に広く分別せるが如し。
(身化の中に相違を会通する) 其の身化の中に『仏地経』に業果化を現じて根・心等を現ずることを説く。然るに『瑜伽』(巻第九十八)に説く、四の事をば化すべからずと。一に根、二に心、三に心所、四に業果なり。彼と相違す。下の第十に准ずるに、心を化せざると説くは、二乗等に依って説く。業果等も亦爾なり。故に知る、仏に在って通じて能く之を化す。又仏は之を化すとも実の勝用無きが故に化せずと名づく。似を化すことは亦得。境を知ること遍ずるに由るが故に此の能有り。
問。此の本頌の文は唯識を明かすと雖も、但だ見分のみを説く。然るに見は根に依って起こる。相は猶(従?)見より生ず。何が故に本文に根と境とを弁ぜざる。」
この問いに対する答えは次の科段に於いて述べられます。『荘厳論』に説かれている「麤顕同類」について、諸根互用が起こった時、五識は、それぞれ五境を縁じるのか、それとも一切法を縁じるのか、という問いにこたえられたものなのです。『荘厳論』に諸根互用の対象が五境であると述べられているのは、麤顕と同類ろいう言葉の表現が違うだけであって、六境(一切法)と相違はないと会通したのを受けて、本科段ではさらに『仏地経』を引用して諸根互用した五識は一切諸法を縁じることの論証としています。
衆生教化は、五識が転じた成所作智が、遍く一切諸法を縁じることにおいて成就するのであると説いています。