唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 能変差別門 (19) 随境得名

2012-08-06 21:19:40 | 心の構造について

 「何が故に眼識をば法識と名づけず、第六意識を色識と名づけざるや。」(どうして眼識を法識と名づけず、第六意識を色識と名づけられないのであるのか。)という問いに対しての答えがこの科段になります。

 「色等の五の識は、唯色等のみを了す、法識は、通じて能く一切の法を了す。」(『論』第五・十六左)と答えられます。

 (色等の五つの識は、それぞれ、ただ色・声・香・味・触のみを了別する。法識というのは、すべてに通じて、よく一切の法を了別するのである。)

 問いの内容になりますが、もう少し詳しく疑問点をだしますと、随根得名において、眼根に依る識を眼識乃至意根に依る識を意識と名づけられていました。その理由が、根に随って、名を立てたのは、根は五つの義を備えているからである、この五義を備えていることから、六識は、その識が依り所としている根によって名づけられるのである、と。そうであるならば、眼識の認識対象である色は、色法という法(ここでは存在という意味)の一つである、眼識は、法を所縁としているので、眼識を法識と名づけられるべきであるが、そう名づけられないのは何故なのか、またその一方で、意識が了別する認識対象にも色がある、そうであるならば、どうして意識は、色識と名づけられないのであろうか、どうしてそうではないのか、という疑問ですね。この第一の疑問に対する答えの第一答がこの科段なのです。

 「色等の五の識は、唯色等のみを了す」、と述べられています。眼識の認識対象(境)は色(境)ですね。「のみ」と説かれていますように、ただ色境に限るということです。他の境は識別対象とはならないということで、「境界狭きが故に法識と名づけず」と『述記』は説明しています。法といっても色境に限るという狭いものである、と。

 「第六の法識は能く一切の法を了す」、一切ですからすべてです。過去・現在・未来に通ずるわけです。三世十八界の一切諸法を認識対象とする、この意識の認識の対象範囲は寛いので、「了する境寛きが故に色等の識と名づけず」と説かれるわけです。

 論。色等五識至了一切法 述曰。前之五識唯了色等。境界狹故不名法識。第六法識能了一切法。了境寛故不名色等識又第六識更爲別解」(『述記』第五末・四十九左。大正43・416c) 

 (「述して曰く。前の五識は唯色等のみを了す。境界狭きが故に法識と名づけず。第六の法識は能く一切の法を了す。了する境寛き故に色等の識と名づけず。また第六識において更に別解を為す」)

 別解とは次の科段で述べられますが、第六意識は十二処中の第六の外処のみを了するので、この別法に随って法識という名をつけるのである、といわれています。