唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 自性並行相門 (4) 識という別名について

2012-08-27 22:49:13 | 心の構造について

 不共の所依・未転依の位・見分が所了を述べます。不共の所依とは不共依で同境依のことですが、前五識は五根を所依としていると経典には説かれていることについて会すわけです。未転依の位とは已転依の一切の法を縁ずるを簡んで、但、色等を縁ずると言っています。見分が所了というのは自証分を簡ぶ。「了境為性相」とは、体と相とのニ門をいい、了は自性に通じ、即ち自証分である、と。行相は識の見分になり、相を縁じて境といいます。自証は見分が依り所となって見分を縁じて境と為すわけです。また「境を了す」というのは識の自証であり、亦、行相になります。経にたいする疑問に答えるのに、しばらく共依を除き、已転依の位を除いて説いているということなのですね。そして見分の所了(認識対象)である相分を説いたということになります。五識の場合では五境を説いたということですね。

 「余の所依と了とは、前に已に説きつるが如し。」(『論』第五・十七左)

 (他の所依と了とは、前に已に説いた通りである。)

 「此れに由って五識の倶有所依は定めて四種有り、謂く五色根と六と七と八との識なり。随って一種をも闕くときには必ず転ぜざるが故に。同境(前五識)と分別(第六識)と染淨(第七識)と根本(第八識)との所依別なるが故に。聖教に唯だ五根に依るとのみ説けるは不共なるを以ての故に。又は必ず同境なり、近なり、相順せるが故なり。」(『新導本』巻第四p21)

 「余の所依」、所依には四つあるけれども、『経』には不共依の一つしか説かれていない。残る三つ、即ち分別依と染浄依と根本依は説かれていないのは、これはすでに前の第四巻に説いたのである、と述べています。

 「了」見分の働きについてもすでに、第ニ巻に説いている(四分義として見分・相分・自証分・証自証分)といいます。

 「論。餘所依了如前已説 述曰。餘依者。即分別依・染淨依・根本依。如前第四卷解。若依境立名。如次前説 餘了者。若自證分。如第二卷解。若自在五識見分境。如次前説。故此總言餘所依了如前已説。雖後明四智。今但指前。今應義准因果十八界爲縁不同 頌曰。因見各隨應。五三六有二。六一一不定。自在・等分別。所依之頌如前已説 准前文中。且依不共依。簡因・無間・及染・同境・共依等故。未自在位非他所引。若由他力定・通所引。 亦縁法故 又此應説三界繋・不繋之識。異生・聖者三乘人等縁境分齊。如對法第二末。六十五等抄説。 

 次第三段。將解第四三性之門。初寄問起。後依問答。」(『述記』第五末・五十六右。大正43・418a27~418b12)

 (「述して曰く。余の依とは、即ち分別依・染淨依・根本依なり。前の第四巻に解するが如し。若し境に依って那を立つることは、次前に説くが如し。余の了とは若し自証分は第二巻に解するが如し。若し自在の五識の見分の境は次前に説くが如し。故に此こに総じて余の所依と了とは前に已に説くが如しと。後に四智を明かすと雖も、今は但だ前を指す。

 (十八界の依・縁を明かす) 今応に義をもって准ずるに因果に十八界を縁と為すること不同なるべし。頌に曰く。因の見は各々応に随って、五には三あり(五塵界には五・六・八の三つ)、六には二有り(五根には六・八、意根には六・七の二つ)、六は一なり(六識には意識の一つ)。一は不定なり。自在と等とは分別なり。所依の頌は前に已に説くが如し。前の文の中に准ずうに且く不共依のみに依ると云えり。因(因縁依)と無間(等無間依)及び染(染淨依)と同境と共依との等(第六と五識と同境依と第八根本依)を簡ぶ。故に未自在の位には他の引く所に非ず。若し他力の定と通の所引に由るをば、亦法を縁ずるが故に。又此れに応に三界繋・不繋の識と異生と聖者三乗の人等が境を縁ずる分斉とを説くべし。『対法』第二の末と、六十五(『瑜伽論』)当との抄に説くが如し。)  十八界の所依と所縁について、『述記』に「今応に義に准ずるに因果に十八界を縁と為すること不同なるべし。頌に日く。因の見は各々応に随う。五には三あり。六にはニ有り。六は一なり。一は不定なり。自在と等とは分別すべしという。所依の頌は已に説きつるが如し。前の文の中に準ずるにしばらく不共依にのみ依る。因(因縁依)と無間(等無間依)と及び染(染浄依)と同境(第六と五識と同境依と根本依)と共依との等を簡ぶ。故に未自在の位に他の所引に非ざるをいう。」と説明されています。『樞要』(巻下・二十九右)には「五三とは色等の五界は三の識の所縁なり。一に五識。ニに第六。三に第八。第八をば意界に摂む。「六にはニ有り」とは眼等の五界は六・八ニ識の所取(客観的対象ー知られるもの)なり。意界は通じて六七の為に所取す。「六は一なり」とは眼等の六識界をば、唯一意識のみ縁ず。第七・八識を意識界と名づけざるが故に。「一不定」とは即ち法界なり。」と述べられています。

 『樞要』の文については明日述べます。