「所依頌曰。五四六有二。七・八一倶依。及開導・因縁。一一皆増二 五四者五識各有四依。一順取依。二明了依。三分位依。四依起依 六有二者。第六意識有二所依。一分位。二依起 七八一者。七・八二識各有一依。七有一。謂依起。八有一。謂分位。倶依者。顯上所明倶有依攝。開導者。即等無間依。因縁者即種子依。及者顯此諸識更加二依。一一皆増二。謂五有六。第六有四。七・八各三。如前第四卷説。
所縁頌曰。因見各隨應。五三六有二。六一一不定。自在等分別 因者。簡自在位 見者。於因中取見分除自證分等 各者。顯別別界 隨應者。顯能縁識非決定故。隨其所應諸識縁故 五三者。色等五界三識所縁。一五識。二第六。三第八。第八者意界攝 六有二者。謂眼等五界。六・八二識所取。意界通爲六・七所取。瑜伽等説第七・八識意界攝故 六一者。謂眼等六識界。唯一意識縁。第七・八識不名意識界故 一不定者。即法界。若非他定・通等力所引。唯意識縁。若爲他引。五・八・六識倶能引之。於中復有異生・二乘・菩薩所引。各有差別 自在分別者。謂或初地・或八地・如來位各有差別。一一爲他八識縁也 等分別者。謂若因中法界心所。並自證分・證自證分。於七心界中處處加自。及果上十八界。爲七心界及法界所了。如理應知。」(『樞要』巻下本・二十九右。大正43-641a)
(「所依の頌に曰く。五には四あり、六には二有り。七と八とには一の倶依なり。及び開導と因縁なり。一々に皆二を増せり。五・四とは五識には各々四の依有り。一に順取依、二に明了依、三に分位依、四に依起依。六に二有りとは、第六意識には二の所依有り。一に分位、二に依起なり。七・八に一とは、七・八二識には各々一の依有り。七には一有り。謂ゆる依起なり。八には一有り。一に謂く分位なり。「倶依」とは上の所明は倶有依に摂すと云うことを顕す。「開導」とは即ち等無間依なり。因縁とは即ち種子依なり。及とは此の諸識に更に二の依を加えることを顕す。「一々皆な二を増す」とは謂く五には六有り、第六に四有り、七・八に各々三有り、前の第四巻に説くが如し。」)
所依については、前五識には各々四つの所依が有る。同境依・分別依・染淨依・根本依を所依としている。例えば、眼識の所依は眼根という不共依だけではなく、他に、第六意識と末那識と阿頼耶識の共依の三つを加えた四つを所依とする。
第六意識は第七識を不共依とし、第八識を共依とする。第七識は第八識を不共依とし、第八識は第七識を不共依とする。ここで問題となっているのは、前五識ですが、前五識は、同境依としての五根、分別依としての第六意識、染淨依としての末那識、根本依としての阿頼耶識の合計四つの所依を持つのであると説明しているのです。
(「所縁の頌に曰く。因の見は各々応に随う。五には三あり、六には二有り、六には一あり、一は不定なり。自在等との分別する因とは自在の位を簡ぶ。見とは因の中に於て見分を取って自証分当を除く。各とは別別の界を顕す。随応とは能縁の識は決定に非ざることを顕すが故に其の所応に随う、諸識縁ずるが故に。「五三」とは、色等の五界は三の識の所縁なり。一に五識、二に第六、三に第八、第八をば意界に摂す。「六有二」とは、謂ゆる眼等の五界は六・八二識の所取なり。意界は通じて六・七の為に所取なり。瑜伽等に第七・八識は意界に摂すと説くが故に。「六一」とは、謂ゆる眼等の六識界をば唯一意識のみ縁ず。第七・八識を意識界と名づけざるが故に。「一不定」とは、即ち法界なり。若し他の定と通等との力の為に引かざるるに非ず。唯だ意識のみ縁ず。若し他の為に引くならば、五と八と六識と倶に能く之を引く。中に於て復、異生と二乗と菩薩との所引有って、各々差別有り。「自在分別」とは、謂ゆる或は初地と或は八地と如来位とに各々差別有り。一々に他の八識が為に縁ぜるなり。「等分別」とは、謂ゆる若し因の中の法界の心所と並びに自証分は証自証分なりと。七心界中に於て処々に自を加えたるなり、及び「果の上の十八界」とは七心界と及び法界との為の所了なり。理の如く応に知るべし。」)
所縁について説明しています。これもまた「義の便」によって説くということです。
識そのものは能縁の作用ですね。しかし境を縁ずる作用もまた縁じます。何かを知るということは、識そのものは見分であるけれども、知るということを知るという作用が働いています。自己自身を自覚するということは、自覚する底に自証分があり、自証分を証自証分が証明しているという構造になります。見分・相分と二分が並列的に述べられますが、相分というのは厳密には見分によってとらえられたもの、見分内相分といえます。そしてその根底に自証分があるのですね。、識自体で、自体分ともいいます。これがまあ性相学といわれるのですが、「性とも相とも為す」と。性は自体分・相は能縁の作用であって見分ですね。義に於て相違するから分かって二門、自性門・行相門といいます。しかし第六意識の体と相とはその義が最も親しいので自性行相門といい、『論』に「了境為性相」というのである、と。