唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(92)  第六・ 我執不成証 (27) 

2012-06-26 23:01:56 | 心の構造について

 『演秘』の釈。

 「疏(『述記』)に「対法等云漏所随逐等」とは、瑜伽論の文を等するなり。樞要に弁ずるが如し。対法の所説は義燈に解するが如し。故に此に言わず。」(第四末・三十七左)

 『述記』に述べられている、「漏に所随というは、謂く、他地を逐して但だ漏随のみを言って他地を縛すとは言わず、復相増益せざるが故に」という文は『瑜伽論』巻第六十五(大正40661c)に述べられているのと同じであるが、この意義は、『樞要』(巻下本・二十七右・大正43・640c)に詳しく述べられている。そして『対法論』の所説は『了義燈』(第五本・十五右。大正43・748b)に解釈されている通りである、よってここでは解かない、と。

 『樞要』に

 「煩悩に由って施等の業を引くと雖も、而も倶起せざるを以て有漏の正因に非ず。即ち縁縛等は有漏の正体に非ずと云うことを顕す。六十五の説に、現量の所行は所縁縛の其の清浄の色と不相応善と及び一分の無記心心所とには有り。但だ随眠に由って有漏と名づくると。・・・・・・」

 『了義燈』に第六十五に有漏の差別を説いて、『瑜伽論』の所説を引用し、有漏とは何かを説いています。今は『瑜伽論』から本文を抜粋します。

 「復次に、五相に由るが故に有漏の諸法の差別を建立す。何等をか五と為す、謂く (1) 事に由るが故に (2) 随眠の故に (3) 相応するが故に (4) 所縁の故に (5) 生起するが故なり。 

 云何が有漏法の事なる、謂く清浄なる内色(内の勝義の五根)及び彼の相依(扶塵の五根)・不相依の外色(五境)、若しくは諸の染汚の心・心所、若しくは善無記の心・心所等此れ有漏の事なり。其の所応に随って余の四相に由って説いて有漏と名づく。謂く随眠の故に、相応するが故に、所縁の故に、生起するが故なり。

 若し清浄なる諸色に於て及び前に説ける所の如き一切の心・心所の中に於て煩悩の種子をば未だ害せず、未だ断ぜざれば説いて随眠と名づけ、亦は麤重と名づけ、若し彼れ乃至未だ余す無く断ぜざれば、當に知るべし、一切随眠に由るが故に説いて有漏と名づけ、若しくは諸の染汚の心・心所は、相応するに由るが故に説いて有漏と名づくと。

 若しくは諸の有事、若しくは現量の所行、若しくは有漏より生ずる所、増上して起こす所、是の如き一切は漏の所縁なるが故に名づけて有漏と為す。此の中現在を名づけて有事と為し、過去・未来を非有事と名づけ、若しくは清浄色に依る識の所行を現量の所行と名づけ、若しくは余の所行は當に知るべし非現量の所行と名づくと。若しくは内の諸処増上して一切の外処を生起するを有漏より生ずる所増上して起こす所と名づけ、唯、彼の所縁のみ當に知るべし有漏なりと。

 所以は何ん、若し去・来を縁じて諸の煩悩を起こさば、過去・未来は有事に非ざるが故に所縁に由るを説いて有漏と名づけず。

 若し現在の事にして現量の所行に非ざれば、清浄色及び一切の染汚・善・無記の心・心所の如く、彼も亦煩悩の所縁なるが故に説いて有漏と名づくるには非ず。

 但、自ら分別して起こす所の相に由って諸の煩悩を起こす、彼の諸法を此れ分明の所行の境と為すに非ざるが故なり。

 生起に由るが故に有漏を成ずとは、謂く、諸の随眠未だ永えに断ぜざるが故に、煩悩に順じて境現在前するが故に、彼、現ずるに於て不如理なる作意を起こすが故なり。此の因縁に由って諸の所有る法の、正に生じ(現在法)、已に生じ(過去)或いは復、當に生ず(未来法)べき是の如き一切は生起に由るが故に説いて有漏と名づく。

 又一切の不善の煩悩より諸の異熟果及び異熟果の増上して引く所の外事生起す、是の如きの一切を亦生起するが故に説いて有漏と名づく。

 又無記なる色無色繋の一切の煩悩に由り彼に於て続生す、彼の続生する所をも亦生起するが故に有漏と名づく。

 是の如きを名づけて五相に由るが故に有漏の諸法の差別を建立すと為す。謂く事に由るが故に、随眠の故に、相応するが故に、所縁の故に、生起するが故なり。」と。

 この『瑜伽論』の所説の文を『了義燈』は解釈を施しています。  (つづく)


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