唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(95)  第六・ 我執不成証 (30) 

2012-06-29 22:38:43 | 心の構造について

 (第四に) 漏の所随と云うは、謂く余地(他縁の惑)の法なり。互に相増せざるが故なり。

 (第五に) 漏随順とは順決択分なり。異地は増せず。同地は増することを得、漏と倶なる容きが故に。若しは無漏の者は随順に非ざるが故に。有漏の者ならば有を憎背(ぞうはい)すと雖も、然るに漏と倶なり。爾らずんば漏と倶なるは漏の目(因)に非ざるが故に。漏と倶なりと雖も而も増益(ぞうやく)せず。損力益能転(そんりきやくのうてん)と称するが故に。然るに有漏と成ること、増益と言う者は余の漏に拠って説けり。

 (第六に) 漏の種類と云うは無学の諸の蘊なり。前の生ぜる煩悩に起こされたるが故に。瑜伽の六十五に有漏の差別なることを説く。五の相に由るが故に。謂く、

  1.  事の故に、
  2.  随眠の故に、
  3.  相応の故に、
  4.  所縁の故に、
  5.  生起の故

 なり。

 事と云うは、謂わゆる清浄の諸色と三性の心・心所となり。此れは是れ能く諸漏を有する体事なり。其の所応に随って、余の四相に由って説いて有漏と名づく。謂く随眠の故に、相応の故に、所縁の故に、生起の故なり。即ち、前の諸法に於て煩悩未だ所有の種子を断ぜず。説いて隋眠と名づく。彼を此の種に由って説いて有漏と名づく。諸の染の心・心所は相応に由るがゆえに。若し諸の有事(五識)と現量の所行(五境)なると、若し有漏の所生の増上の所起(山河)と、是の如くの一切は漏の所縁なるが故に名づけて有漏と為す。現在を有事と名づけ、若しは清浄色(五根)に依る(五)識が所行(五境)を現量所行と名づく。此れは貪等が能く現量に彼の色等の境を縁ずるに拠って、漏の所縁と名づく。余は所縁に非ざるは、論に云く、但だ、自の分別に起す所の相に由って諸の煩悩を起こす。彼の諸法は此の分明(ぶんみょう)の所行の境と為るに非ざるが故にと云えり。故に前に会するが如し。

 生起に由るが故に有漏を成ずる者は、随眠を未だ断ぜざるをもって煩悩に順ぜる境現在前するが故にと云えり。此れは惑の引に拠って云う。又、云く、一切の不善の煩悩に従って、諸の異熟果と及び異熟果の増上に引かれる。外事(山河)の生起とは亦、生起の故に説いて有漏と名づくと云う。此れは有漏果を依と為して生ぜらるる亦、有漏と名づく。

 五聚の法は有漏の位の三性の中に於て、雑集の六と、瑜伽の五との義に依るに各々幾かの義を具せるを名づけて有漏と為せり。樞要の下巻に十二支の三断を解するが中に弁ずるが如し。此の二の文に准ぜば、唯漏と倶なるを名づけて有漏とは為さず。

 答。此れは正因に拠り、彼は別に拠る。故に相違に非ず。」