唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(74)  第六・ 我執不成証 (⑨) 

2012-06-01 22:22:27 | 心の構造について

 「相分とは、相とは境の相、境は対象をいう。相は内容である。意識においては、対象が意識の内容として表現されている。意識は、意識を超えた対象を意識することはない。意識においては、意識が指向している対象は、内容に表現されている。対象が、意識作用に内在的であるのが、意識の特色である。凡夫は、境の相の実相を知ることはできぬ。境相ということ。意識は常に何かの意識、根本的に何かの意識である。花があり意識があり、花に意識が用くということで、花の内容が意識にあらわれる(表象)のではない。表象された花と外境の花とがイコールだというのが素朴的実在論であるが、これは何も証明するものがない。もし証明するなら、もう一つ上の立場から比べてみるものがなければならぬ。主観の表象が、いかにして客観と一致するかを論証せねばならぬ。それが、認識論のやかましい問題になる。唯物論は唯物論的立場から、また唯心論的立場から論証しようとするのである。

 ところが、これは主観の外に客観あり、客観の他に主観があり、それを結ぼうとするので問題が起こる。唯識の方では、理論でなく事実である。意識は、初めから何かの意識である。無内容の意識が対象に触れて、内容が与えられるのではない。これは三つの識、客観といえば客観という意識、主観といえば主観という意識、結びつくといえば結びつくという意識である。これは、唯物・唯心の成り立つ基盤である。どちらを取るかは学問できめればよい。唯物論で説明できなければ唯物論の負け、唯心論で説明できなければ唯心論の負けである。

 何も無い識というのは無いので、何も無いというなら、何も無いという識がある。認識からは意識を考えられぬが、意識から認識を考えればよい。主観があって客観があって、所取の客観・能取の主観があって、能取が所取を取るというのは事実としては無いのであって、これは考えたことである。第一義的真理ではない。凡夫がそう考えるから、考えに似て識が現ずる。第一に、ものが用くというのが考えである。それは実体に立った考え方である。常識とか科学とか哲学を一貫した考えであって、その考え方がなければ話ができぬのである。無いけれどもそう考えるから、その考えに似て識があらわれる。無始以来、花があると考えるから、有る花に似て識が現ずる。我々が意識する前に有る花を考えるから、そういう花に似て識があらわれる。しかしあらわれた花は、現じたごとくあるのではない。花が有るのでなく、花の識がある。外なる花に似ているが、押さえれば内なる識である。火に触わったら熱いというが、熱いというのも意識である。

 しかし、全部、観念になってしまうのでなく、客観的なままが意識である。意識でなければ熱いともいえぬ。外に似て現ずるが、内にある。意識は、意識しようと思って意識するのでなく、意識されたのである。我々が、次の瞬間に起こる経験を予定しえない。何かを意識するというのは、何かという実体を考えているからであるが、事実は我々の分別をまたずに何かに似た意識があらわれる。その体験を日本人は自然といい、印度人は法爾という。しかし、聞こえた事実は幻影ではない。どこまでも事実である。そこに、因縁の道理によって何かの意識が起こっている。意識が花に似て現ずるには、意識が花に似て現ずる因縁がある。

 とにかく、境は相分としてあらわされている。これは事実である。事実であることを依他起性という。事実的存在である。事実の道理を因縁という。依他起と縁起は同じであるが、依他起というと存在の在り方になる。因縁から生じたものは、因縁から生じたものという性質をもつ。それが依他起である。縁を他といい、生を起という。縁から生れたものは、縁から生れたということが自性である。それを依他起性という。相分は依他起性である。ところが凡夫は、因縁によって識が花に似て現じたのを見て、識を超えて花があると思う。自分に迷うわけである。事実が実体化される。相分が外境として実体化される。

 そういうものを所執という。ただ考えられてあるものということである。識が花に似て現じたので、現じたままが識だが、それが識を超えてあるものとする。意識内容が実体化される。依他起は似有、遍計所執は実有、経験そのものは凡夫であっても依他起である。凡夫も事実を離れて生きるわけにはゆかぬ。しかし凡夫においては、その経験が実体化されたいる。実体化に似て識が現じ、識が現じたものを実体化する。これが流転である。意識内容が実体化されることによって、見分が縛られる。相分の実相に通達しえない。意識内容を実体化することによって、意識作用が縛られる。」

               (『安田理深選集』第三巻・p203~204より) つづく