唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(86)  第六・ 我執不成証 (21) 

2012-06-19 23:01:08 | 心の構造について

 次は大衆部等を論破する。

 「又別に随眠(ずいめん)有り、是れ不相応なり。現に相続して起こる。斯に由りて善等いい有漏法と成るとは説くべからず。彼は実有に非ざること已に極成せんが故に。」(『論』第五・十四左)

 (また、別に随眠があって、この随眠は不相応行法である。現在に相続して起こっている。これによって、善等(善と無覆無記)は、有漏法と成る、とは説いてはならない。何故ならば、随眠は実有ではないからである。そして実有でないことは、すでに極成していることであるからである。)

 随眠 - 煩悩の種子としての随眠。煩悩の潜在的なありよう。種子を随、潜在的ありようを眠という。顕在的である纏(てん)に対比する概念。

 随眠は不相応行法である。色でもなく、心でもない存在、仮有の法であるということなのです。実有ではないと。『論』巻第二で既に論じ破ったと述べられています。

 大衆部の所説は、5月17日の記述より

 「大衆部等の所説は、「別に随眠(ずいめん)有り、是れ不相応行なり、此の位に成ず故に我執を成ずと名づく」と。此の位とは無想天ですね。随眠とは、煩悩の潜在的ありかたで、阿頼耶識の中の煩悩を生じる種子(可能力)をいいます、それに対し、煩悩の顕在的ありかた(現行)を纏(てん)といいます。ですから、不相応行法に随眠があり、異生が無想天に生まれるときに随眠の状態になるという。随眠としての我執は存在しているから、無想天の異生に我執は存在しているのである、と。煩悩の現行である纏は存在しないが、種子は存在しているという説です。この説は已に論じ破ったと。『論』巻第二、大衆部等を破す、「有るが執すらく、随眠は心・心所に異なり、是れ不相応なり。行蘊に摂めざると。彼も亦理に非ず。貪等と名づくるが故に。現の貪等の如く、不相応に非ざるべし」と。大衆部は随眠は不相応行であり、実法であると主張しているのですが、已に実法ではなく(実存としての不相応行法は存在しない)、仮法であると論破しているのですね。

論。不相應行前已遮故 述曰。上已破故。此正破大衆等部。及破正量部等得類即不失増長。並在此中 經部救言雖無彼現行。此位有種子在。名有我執。」(『述記』第五末・三十五右)

 (「述して曰く。上に已に破すが故に。此れは正しく大衆等の部を破し、及び正量部等の得の類を破す。即ち不失と増長と並びに此の中に在り、

 経部救いて言く、彼の現行は無しと雖も、此の位に種子在ること有るを以て、我執有りと名づく。」)

 心不相応行法 - 色(物質)でも心でもない存在を、色心不相応行という。唯識は、心の働きの上に仮に立てられたもの仮有の法であると説く。しかし、大衆部等は色・心と同じような存在性をもつもの、実法であるとする。

 「次ニ不相応ニ廿四ト者、又百法論ニ列ネタル廿四ナリ。是皆仮法ナリ。」(『法相二巻鈔』)と述べられています。この二十四は心王と相応せず、心でもなく色でもなく、色法と心法との上に立てられた二次的なものであり、色心を離れて別にあるものではないので仮法といわれいるわけです。『論』では「色等の分位に依って仮立せり」と説かれています。

 「論。又不可説至已極成故 述曰。第二大衆等救。今破之言。不相應假隨*眠非實。正量部等不失増長破。極成故。」(『述記』第五末・三十九左。大正43・414c)

 (「述して曰く。第二に大衆部等を救す。今之を破して言く、不相応は仮なるを以て随眠は実に非ざるべし。正量部等の不失増長も破して極成するが故に。」)