唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(82)  第六・ 我執不成証 (⑰) 

2012-06-13 23:37:28 | 心の構造について

 「問う、若し爾らば二乗の無学の(有漏の)五・八にも相縛有るべし、幻と了せざるが故に。答う、二の解有り。一は云く、染の意(第七我執)滅するが故に。五・八には縛無し。二は云く、既に有漏所生の相分を縁ず。是れ分別の相なるをもって猶、是れ相縛なり。似の有漏の昔、第七の漏と倶にして漏を成ずるに由って、(二乗無学)染の七の無き時にも、五・八の二識は仍し有漏に摂むるが如し。相縛も然るべし。」(『了義燈』)

 以上の理由に由ってですね、「このような染汚の末那識は、これは識の所依である。この末那識が未だ滅しない時には、識の縛をついに脱することはない」という。「この識」の識は六識を指す、といわれています。ですから『無性摂論』の伽陀の意味は、末那識は六識の所依であり、末那識が滅しないうちは、六識の相縛は、ついに脱しない(消滅しない)という。『樞要』は「末那を識縛の本と為す」と述べられています。

 第二は他学派の説を論破する。初は、有部等を論破します。

 「又、善と無覆無記との心の時に若し我執無くんば、有漏に非ざるべし。自相続の中の六識の煩悩は、彼の善等と倶起せざるが故に」(『論』第五・十四左)

 (また善と無覆無記との心の時に、もし我執がなかったならば、それは有漏ではないであろう。自相続の中の六識の煩悩は、六識の善等と倶起しないからである。)

 善と無覆無記との心の時に、末那識の我執が六識の下で働き続けなければ、有漏になることはなく、無漏になるという。末那識の存在によって、善や無覆無記の心も有漏となるのである、と。しかし有部等からの反論は「前と及び後との去・来の煩悩に由って発するが故に縁(縛)するが故に、」という、即ち末那識の我執に由って有漏になるのではなく、善や無覆無記の心に、さらに煩悩が存在し、六識を有漏にしているのである、と。それに対して、そうではなく六識の煩悩と六識の善や無覆無記とは倶起しないのであるから、有部等の反論は成り立たないと論破しているのです。

  「論。又善無覆至不倶起故 述曰。第二破他有三。一破一切有等。二破大衆部等。三破經部。重成有我執。諸法成有漏。皆由第七故。所以者何。要與自身煩惱倶者方成有漏故。善心・無覆。既與煩惱不倶。應不成有漏。以彼説無第七識故 若彼薩婆多等。言由前及後去・來煩惱發故。縁故。此善等成有漏者。不然。」(『述記』第五末・三十八左。大正」43・414b~c)   (つづく)