唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(80)  第六・ 我執不成証 (⑮) 

2012-06-11 22:09:28 | 心の構造について

 『了義燈』は次に相縛について問答を設けて明らかにしています。相縛は、我執を帯びた第六識を相縛というのですが、更に『論』では相縛は有漏であるということを明らかにしているのです。三性において有漏であると。相に縛されること、相分が見分を縛することですね。相縛の体は煩悩障であると説かれています。

 「問う、相縛と言うは、煩悩障とや為ん、所知障とや為ん。答う、設し爾らば何の失あらん。二つながら倶に過有り。若し煩悩障に由るといわば、二乗の無学の有漏心の位には相縛無かるべし。我執断ぜるが故に。若し所知障に由るといわば、(二乗の)生空の後智に相縛有るべし。

 二の解有り。一に云く、所知障に由る、若し爾らば生空の後智にも縛有るべし。答う、相い順ぜざるが故に。安慧の釈に依らば、此れを即ち、正と為す。二に云く、煩悩障を以て相縛の体と為す。若し爾らば二乗の無学の有漏の善・無記心には相縛無からべし。答う、此の相分の体は是れ有漏にして是れ彼(有漏善心)に引かれて種を熏成するが故に。今(無学位)彼の我執の体を断じ盡すと雖も、相縛有るに由る。然るに法執の体は正しき相縛には非ず。相有りと執するが故に。依と為って彼の我執を助けて起こる。故に是れ助の相縛なり。無学の散の善と及び無記心とは亦、此の助有るを以て、未だ相縛を離れず。生空の後得は其の助有りと雖も、昔の有漏の所熏の相たる正しき相縛無きが故に無しと云うを得。此の釈を正と為す。

 然るに、三輪の相を執するは、唯、第六識のみなり。五・八は任運なり。第七は内に縁ずるが故に。若し有漏の相を名づけて相縛と為せば即ち八識に通ず。」(『了義燈』)

 三輪清浄の相状を執着するのは、第六識である、と。三輪清浄の実践において、その相状を六識中にとらえ、その相状を認識した第六意識の我執によって、その相状を亡くすことが出来ないのである。『述記』はその理由を、第六意識の我執によって、施等の実践を起こすと述べています。その時に、第七末那識が内に向かって阿頼耶識を我であると執し、その為に、施等を実践する時、分別の相が生じるのである」と説明しています。分別が生じるということは、相状は雑染であり、有漏であるわけです。善を行っても有漏善となるといいます。

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)

 本願に遇うことを通して自身の虚仮不実の姿が浮き彫りにされるのです。善は行じなければなりません。雑毒の善だから、何をしてもいいということではないのです。それは造悪無碍という過失になります。善を行じても、自分から出る行為には我執の働きが帯びており、その影響で雑染となるということの自覚です。  (つづく)