唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(85)  第六・ 我執不成証 (⑳) 

2012-06-16 21:01:51 | 心の構造について

 我執を帯びた第六識を、有部等は縁縛といい、法相唯識では相縛といいます。そして縁縛を破すのが唯識の立場になります。我執を帯びた第六識は所縁縛ではない、ということですね。

 「過去や未来の煩悩の縁によって、現在の善や無記心が縛されるというのは道理ではないという。・・・相縛は何かに区別していう。多分、縁縛と区別するのではないか。」(安田理深師)

 「善悪無記の心は、六識のあらゆる場合ということである。いかなる心を起こしても、異生の六識は我執とともにある。第五(無想有染証)は特殊な凡夫である。第六(有情我不成証)はもっと広い。有心の三界の異生、その場合の衆生を取り出して考えたのである。あらゆる場合に異生を異生たらしめているのは、常に我執が起こっていなかればならぬが、常に起こっている我執は常に起こっている識以外に根拠は無い。六識では求められぬ。説く識は転易する。それで転識という。無記や善の場合に矛盾が起こる。無記や善心の起こった場合に、我執は起こるわけにはゆかぬが、事実は無記や善心の起こっている場合も凡夫である。

 さきに相縛の問題に触れたが、これは我執の相応している末那によって第六識に相縛がある。第六識というものはそこに内容が実体化されているから、つまり依他起性である意識の内容を遍計所執としているから、それによって第六識が縛られている。相縛は染汚の末那識によってそうなっている。」(『安田理深選集』第三巻、p210~211)

 その三は、有部等の再反論を予想して論破(更に転救を破す)する一段です。

 「他の惑に由りて有漏と成るものには非ざるが故に。他の解(げ)に由りて、無漏と成るものにはあら勿(ざ)るが故に。」(『論』第五・十四左)

 有部等の再反論の想定は『論』には記述はありませんが、『述記』に記載されています。『論』にはその答えが述べられているのです。 (他者の煩悩によって、善・無記の心が有漏になるものではない、また他者の解(さとり・智慧)によって、無漏となるものではないからである。)

「論。非由他或至成無漏故 述曰。彼若救言如無學身雖非己身現有煩惱。然由現在他縁縛故。成有漏者。此亦不然。非由他惑成已有漏 若彼救言何爲不得。故應難云。勿由他解成己無漏。如何有漏由他漏成。此薩婆多等死訖。」(『述記』第五末・三十九右。大正43・414c)

 (「述して曰く。彼もし救して無学の身の如き己身に現に煩悩有るに非ずと雖も、然れども現在に他の縁縛するに由るが故に有漏と成るが如しと言わば、此れ亦然らず。他の惑に由って己が有漏と成るには非ず。若し彼救して何の為に得ずと言わば、故に応に難じて云うべし。他の解に由って己が無漏と成ること勿れ。如何ぞ有漏他の漏に由って成ぜん。此れ薩婆多等死け訖んぬ。」)

 有部等の再反論は「無学の身の如き己身に現に煩悩有るに非ずと雖も、然れども現在に他の縁縛するに由るが故に有漏と成るが如し」と。自分の身に煩悩がなくなった無学の身であっても、他者からの縁縛によって有漏となるようなものである。従って末那識を説かなくても、六識の善・無記の心が有漏となることの説明はつくのである、というものです。

 この有部等の再反論の再論破が『論』の記述になります。