有漏についての説をまとめますと、
「現行」とは、種子ではないことを示し、これは経量部の種子説を否定します。
「煩悩と」というのは、大衆部の説く随眠を否定するものです。
「倶生倶滅」とは同時に活動するという意味になり、有部のいう三世実有法体恒有説を否定するものです。
「互相増益」とは、互いに縁となり相い生じ増益することをいい、第七末那識が第六意識の雑染依となり、また第六意識が、第七末那識の所依となる阿頼耶識を生じさせることをいう。しかし無漏法は「互相増益」することが無いために除外されるという。
『了義燈』の所論は、第六意識から第七末那識を増益することがあるのか、若しあるとしたならばどういうことなのか、という問いを出して、増長と不損の二面から説明しています。
二は、有漏の熏習について、
「此に由りて有漏法の種を熏成(くんじょう)す、後の時に現起して、有漏の義成ず。」(『論』第五・十五右)
(これによって有漏法の種子を熏成(顕在的な行為で、現行・転識が潜在的な阿頼耶識のなかに種子を植えつけ生成すること)するのである。後の時に現行生起して、有漏となる。)
「論。由此熏成至有漏義成 述曰。有漏現行起故。熏成有漏種。後時善等起有漏義成。亦非無始無因故成有漏。亦非漏種逐故成有漏。」(『述記』第五末・四十三右。大正43・415a)
「述して曰く。有漏の現行起こるが故に、有漏の種を熏成して、後の時に善等起こって有漏の義を成ず。亦無始より因無くして有漏を成ずるには非ず。亦漏の種逐(お)うが故に有漏と成るにも非ず。」
前六識は第七末那識(四煩悩)と倶生倶滅する為に、すべての現行している法(前六識の三性心)は有漏となるのですね。現行している有漏の種子を熏成して、後に善や無覆無記が起こる時には、この熏成された有漏の種子より現行し、有漏となる、と述べています。
末那識の染汚性によって一切の現行は有漏となり、有漏の種子が阿頼耶識に熏習されるのです。熏習された種子が現行する時には、善等は有漏の善等となると説明しているのです。
末那識の染汚性によって、善・悪・無記というすべての現行法は有漏となるという教説は、私たちの日常の行為に於て大きな課題を示しているといえるのではないでしょうか。末那識の自覚がなかったならば、すべての行為は自己主張に陥るということです。矛盾しているのですが、末那識の自覚という、自己の中にある染汚性を自覚することに於て、自己主張という壁を乗り越えることができるのですね。頭が下がるということですね。いろんな運動がありますが、運動が運動にとどまるならば、そこにもたらされるのはストレスです。「私たちがこんなにも命をかけて戦っているのに」という自負心が逆にストレスをもたらしてくるのですね。この自負心を突破するというか、転換し、自己を明らかにしてくるというところに普遍性をもってくるのでしょう。その鍵を握っているのが末那識の教説です。
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