唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

下総たより』 第三号 『再会』 追加(3) 安田理深述

2012-06-24 14:10:28 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「法然上人に遇うというようなことも、内には南無阿弥陀仏に遇うた、そこに法蔵の願心にふれたということが、神話でなしにそれを日常に於て経験した、法然上人に遇うたということは人間に遇うたということでない。本願に遇うた、迫害流罪という形で本願に生きた、そういうところから考えてゆくという、本願ということが本当の意味に於て成り立つ基礎が時間、本願の時間、本願の歴史というものが、本願の時間というものが成り立ってくる。我々が日常の時間を日常的に過ごしてしまうということがあるために、時間をあれだけ深く過ごすことが出来ないために、ただ神話を神話として過ごしてしまうことになる。神話が神話でなく実存的時間であり歴史的時間がある。実存の歴史というものがある。

 実存的時間というものは本願の現実である

 昔は今であり、今は昔である。こういうところに本当の歴史がある。実存というのは我の存在である。我というところに、神話的時間と日常的時間を綜合するものは我の時間である。我ありという時に本当の現実の時間がある。我を離れたら全部神話になるか、日常というものに流されてしまうか、神話の昔話にもなれず、現実の時間に流される訳にもいかん、現実の時間を超えて時間に生きる、こういうところに我の時間がある。今というのは我の時間である。

 我々が生れてきて始めて仏法に遇うのでない。仏法の中に始めからあるから仏法に遇えるのである。そうでないと仏法に感動する筈がない。我々は遇う以前に仏法の中に生まれておった、それで今あらためて遇うことによって自覚する、そういうことが出会い。深い意義がある。

 我というのが機である。機は時機、我の時を今というのである。時機に於て法がはたらく、機の時である。機を成り立たしめるのが時である。時という字は熟するという意味もある。時が機を熟する、機を摑むということが時の意味である。機を成就させるというのは機を摑む、それが時の意味である。それが出会い、我に出遇うのである。我を通して法に出会うのである。

 過去、現在、未来があるけれどもそれは現在をはなれてはない。現在の上に過去現在未来が二重に未来現在過去と逆に重なっているという意味がある。過去が現在を規定し現在が未来を規定している、そういう意味で過去現在未来という一つがある。もう一つは未来現在過去、未来が出発点となる。未来現在過去、こういう二重の因果があって、過去現在未来というのは異熟因果の業因縁というもの、異熟因果、異熟の因果は過去が現在を規定し、現在が未来を規定する、過去の原因が現在を規定する、其時に過去は尽きるけれども現在は未来を規定する、過去現在未来といっても切れている、過去が現在、現在が未来と切れている、我々が生れて死するというのは過去の自分に応えているのであるが、どうも変わらんものが我々にある。今から変えることの出来ないものが、或る意味で運命的なものがある。それを業道自然という、そして現在はどうかというと現在は未来を決定する、現在は未来を約束し未来の運命を造ってゆく、過去が現在、現在が未来と切れながらつづいてゆく、過去が現在を決定するというのは異熟、現在が未来を決定するというのは異熟、前の異熟が一生一生切れつつ連続する、それが此の生が尽きれば次の生と流転です、過去が現在を規定するといっても切れながら完結しつつ続いてゆく、現在の生死は過去の生死の因に応えている、知らない過去の原因に応えそれを果たす。宿業を果たすというのは自分の負目を果たす、同時にこの一生で我々の新しくやったことは未来の運命を規定する、これはまた別である。現在というところでそれが重なっている、過去の果である現在が同時に未来の因である。現在として重なっている。一面からいうと人間は変る、今の一生を生きたということはその結果を見ることは出来ん、我々が現にみているのは過去の結果である。過去の責任を果たしつつ未来の責任をもってくる。人間はどうにもならん意義と、どれだけ努力してもどうにもならん意義と、同時に無限に変ってゆくという意義の二つが重なってある。果である面はどうにもならん、因である面は変り得る、この二つが重なっている。そういうのが宿業の因果、それは異熟の因果、異熟因異熟果、つまり業の因果、業感縁起、縁起論としては業感縁起、そういうものを代表しているのが十二縁起、過去から現在、現在から未来へと過去が出発の規定になるのが業の因果、同時に未来から規定する因果が、それは存在の因果といってよい。未来から始まる、未来が現在となり、現在が過去となる。可能性が可能性であったものが現実となる。こういう因果であって、ものの生れてくる因果、つまり存在の生起、存在が生起する因果、これはものはものからものになってゆくのであって、別のものになるということでない。物質は何所までも物質から生れて物質、精神は何所までも精神から生れて精神となる、精神から物質になるのでない。          (つづく)

 


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