唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(83)  第六・ 我執不成証 (⑱) 

2012-06-14 23:42:37 | 心の構造について

 「述して曰く。第二に他を破すに三有り。一に一切有等を破す。二に大衆部等を破す。三に経部を破す。重ねて我執有りと云うことを成ず。諸法の有漏と成ずることは皆第七に由るが故に。所以はいかん。要ず自身の煩悩と倶なる者、方に有漏と成るが故に。善心と無覆とに既に煩悩と倶ならざるをもって有漏と成らざるべし。彼第七識無しと説くを以ての故に。」

 諸部派を論破する一段になりますが、其が三つに分けられて説明されます。一に説一切有部等の説、二に大衆部等の説、三に経量部の説を論破します。この科段はその一になります。諸法が有漏となるのは第七末那識に由るのであるということを明らかに説いています。

 間違っているのかもしれませんが、私論です。私たちの一切の行動は煩悩に依るということではないのか。三性のすべてが煩悩に依って引き起こされるのである、と。聞法も煩悩のなせる業であるということです。ということはですね、煩悩もただ煩悩であるということではなく、法に由って明らかにされたもの、ということになるのではないかと思うのです。今日もですね、三夜連続の法話会が難波別院でありましたが、法話会に行くという行動と、聞くということはですね、やっぱり自分の思いなのではないでしょうか。話を聞いた後に自分の判断が下されるのでしょう。今日の話は良かったとか、つまらなかったとか、自己中心的に判断しています。よく、寺に行くというのは自分の思いではなく、行かしめている働きがある、ということを聞くのですが、これでは焦点がぼけてしまうのではないかと思うのです。行くということ、或いは行かないということ、共に煩悩の働きであるということをはっきりとさす必要があるのではないかと思います。大事なのは法を聴くということにおいて、「自己中心的に思いあがっていた」という懺愧心を頂くことではないでしょうか。そうでなければ、聞法することが善で、聞法しないことが不善であるという構造になります。聞法することも本当のことを知りたいという欲求であり、聞法しないことも又本当のことを知りたいという欲求に他なりません。知りたいという欲求は煩悩なのですね。そしてこの煩悩が転じられて浄土願生という清浄意欲になる、ということではないでしょうか。後で説かれますが、末那識はただ末那識ではなく、出世の末那といわれるように、この恒に審に思量する我執が平等性智という智慧に転換されるといわれているわけです。法性によって見出された意識が末那識なのですね。それ以外に末那識を解明する手立てはないのでしょう、若し解明されたとしたらそれは机上の空論でしょうね。生れたということは分別をもって生み出されたということでありましょうが、分別をもったということは、分別の無い世界から生み出されたということでもあるのではないでしょうか。だから私たちは苦悩を抱えているのではないでしょうか。真実の世界、浄土と言い換えてもいいと思いますが、浄土からの催促が私の上に願われているものであるということになりましょう。このことが煩悩のもっている意味であると思うのです。このことを大乗の論師は命をかけて戦い明らかにしたのでしょう、第七末那識の発見です。