『対法論』と『論』の会通
「煩悩に由って施等の業を引くと雖も、而も倶起せざるが故に、有漏の正因に非ず、有漏の言は、漏と倶なりということを表するを以ての故に。」(『論』第五・十五右)
(煩悩に由って、施等の業を引くといっても、煩悩と善業は倶起しないので、有漏の正因ではない。有漏という言葉は、漏と倶であるということを表すものだからである。)
この科段は、有漏ということについて、『論』と他の文献では、解釈の相違があることから会通します。他の文献は、ここでは『対法論』を指しますが、これは『了義燈』に述べられているものです。『対法論』に述べられている、有漏の六義は昨日記述しましたので省略します。この六義は、漏(煩悩)と倶であることから有漏となるとは説かれているわけではありません。しかし、有漏は漏と倶であるということから『論』は述べられているわけですから、この相違はどこからくるのかという問題が生じます。答えは、『対法論』の記述は、正因から述べられたものではなく、傍因から述べられたものであると『述記』は語っています。そして、『論』は正因から述べているものであるから、煩悩と倶に働くから有漏となることを述べなければならないのです。
「論。雖由煩惱至表漏倶故 述曰。此即牒前漏所縛云。雖知如此。而第六識中漏。與施等不倶起。故非有漏正因。雖亦由之發。而傍因故成有漏。非是正因。正因之言要倶起故。即他縁縛亦傍因也。由此大乘不縁他境。各各別變故。若縁他縛他。便非各各變境。即應我作他受果失。此甚新義。以有漏言正表此法與漏倶故」 (『述記』第五末・四十一右。大正43・415a)
(「述して曰く。此れ即ち前の漏の所縛を牒して云く。此の如く知ると雖も、而も第六識の漏は施等と倶起せざるが故に。有漏の正因に非ず。亦之に由って発すと雖も、而も傍因の故に有漏と成る。是れ正因には非ず。正因という言は要ず倶起すると云う。故に即ち他の縁縛するとも亦傍因なり。此れに由って大乗は他境を縁ぜず。各々別に変ずるが故にと云う。若し他を縁じて他を縛せば、便ち各々境を変ずるに非ず。即ち我作して他いい果を受くる失有るべし。此れ甚だ新義なり。有漏の言は正しく此の法と漏と倶なることを表するを以ての故に。」)