唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(87)  第六・ 我執不成証 (22) 

2012-06-20 23:53:03 | 心の構造について

 第二に、経量部等を論破する。(経量部等の教義を論破し、会通する。)

 「亦有漏種従り彼の善等を生ずるが故に、有漏と成るとは説く可からず。彼の種は、先より因として有漏と成る可きこと無きが故に。」(『論』第五・十五右

 (また、「有漏の種子より、有漏の善等を生ずる為に、有漏となる(善・無覆無記の心が)」とは、説いてはならない。彼(有漏)の種子は以前より因として有漏となっていることはないからである。)

 経量部の説は、有部とは違って種子説を立てます。有漏の種子より有漏法が生じてくるという。「有漏の種子より、有漏の善等を生ずる為に、有漏となる(善・無覆無記の心が)」ということです。つまり有漏の善等の種子から、有漏の善等が生じる為に、末那識を説かなくても、六識の善心等が有漏となる、と主張しているのです。しかし護法は、このような経量部の説は理として成り立たないと指摘します。その論破の主旨が「彼(有漏)の種子は以前より因として有漏となっていることはないからである。」ということになります。善の種子がいつ有漏になったのかという問題です。

                (この項 つづく)

 「漏の種に由って彼いい有漏と成るものには非ず、勿(もつ)、学の無漏心いい亦有漏と成りなんが故に。」(『論』第五・十五右)

 (有漏の種子に由って彼(善等)が有漏となるわけではない。有学の無漏心は勿(禁止の意味をあらわす語)、決して有漏とはならないからである。)

 経量部の反論を予想しての『論』の論破の記述になります。反論の予想は『述記』に述べられています。これは前科段に対する経量部の反論になります。  (未完)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(86)  第六・ 我執不成証 (21) 

2012-06-19 23:01:08 | 心の構造について

 次は大衆部等を論破する。

 「又別に随眠(ずいめん)有り、是れ不相応なり。現に相続して起こる。斯に由りて善等いい有漏法と成るとは説くべからず。彼は実有に非ざること已に極成せんが故に。」(『論』第五・十四左)

 (また、別に随眠があって、この随眠は不相応行法である。現在に相続して起こっている。これによって、善等(善と無覆無記)は、有漏法と成る、とは説いてはならない。何故ならば、随眠は実有ではないからである。そして実有でないことは、すでに極成していることであるからである。)

 随眠 - 煩悩の種子としての随眠。煩悩の潜在的なありよう。種子を随、潜在的ありようを眠という。顕在的である纏(てん)に対比する概念。

 随眠は不相応行法である。色でもなく、心でもない存在、仮有の法であるということなのです。実有ではないと。『論』巻第二で既に論じ破ったと述べられています。

 大衆部の所説は、5月17日の記述より

 「大衆部等の所説は、「別に随眠(ずいめん)有り、是れ不相応行なり、此の位に成ず故に我執を成ずと名づく」と。此の位とは無想天ですね。随眠とは、煩悩の潜在的ありかたで、阿頼耶識の中の煩悩を生じる種子(可能力)をいいます、それに対し、煩悩の顕在的ありかた(現行)を纏(てん)といいます。ですから、不相応行法に随眠があり、異生が無想天に生まれるときに随眠の状態になるという。随眠としての我執は存在しているから、無想天の異生に我執は存在しているのである、と。煩悩の現行である纏は存在しないが、種子は存在しているという説です。この説は已に論じ破ったと。『論』巻第二、大衆部等を破す、「有るが執すらく、随眠は心・心所に異なり、是れ不相応なり。行蘊に摂めざると。彼も亦理に非ず。貪等と名づくるが故に。現の貪等の如く、不相応に非ざるべし」と。大衆部は随眠は不相応行であり、実法であると主張しているのですが、已に実法ではなく(実存としての不相応行法は存在しない)、仮法であると論破しているのですね。

論。不相應行前已遮故 述曰。上已破故。此正破大衆等部。及破正量部等得類即不失増長。並在此中 經部救言雖無彼現行。此位有種子在。名有我執。」(『述記』第五末・三十五右)

 (「述して曰く。上に已に破すが故に。此れは正しく大衆等の部を破し、及び正量部等の得の類を破す。即ち不失と増長と並びに此の中に在り、

 経部救いて言く、彼の現行は無しと雖も、此の位に種子在ること有るを以て、我執有りと名づく。」)

 心不相応行法 - 色(物質)でも心でもない存在を、色心不相応行という。唯識は、心の働きの上に仮に立てられたもの仮有の法であると説く。しかし、大衆部等は色・心と同じような存在性をもつもの、実法であるとする。

 「次ニ不相応ニ廿四ト者、又百法論ニ列ネタル廿四ナリ。是皆仮法ナリ。」(『法相二巻鈔』)と述べられています。この二十四は心王と相応せず、心でもなく色でもなく、色法と心法との上に立てられた二次的なものであり、色心を離れて別にあるものではないので仮法といわれいるわけです。『論』では「色等の分位に依って仮立せり」と説かれています。

 「論。又不可説至已極成故 述曰。第二大衆等救。今破之言。不相應假隨*眠非實。正量部等不失増長破。極成故。」(『述記』第五末・三十九左。大正43・414c)

 (「述して曰く。第二に大衆部等を救す。今之を破して言く、不相応は仮なるを以て随眠は実に非ざるべし。正量部等の不失増長も破して極成するが故に。」)


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(2) 安田理深述

2012-06-17 09:41:58 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「その二つの時間ということについて、人間というものが如何に不確かかということが現されている、こういうのは日常的時間の意味である。我々は両方もたずに生きている、何月何日の日常に流されている、親鸞は日常を超えて生きた、日常の時間の記録ということがそういうことを象徴している。何月何日は日常的時間でありまた記録的時間である。曠劫多少、更に刹那、劫と刹那、長いのは劫、短いのは刹那、そういうのは神話的時間、法蔵菩薩の歴史というようなものは神話的時間で現されている。五劫の思惟、永劫の修行、乃至一念一刹那も清浄ならざることなく、真実ならざることなし乃至一念一刹那、そういうふうにいわれている、その成就としては十劫正覚、法蔵菩薩には五劫、本願成就のところになると十劫、正覚にしても因位の修行にしても劫とか一念一刹那、刹那と劫という形で時が語られている。これは神話的時間、そういうときというものが一方では、日常性を全くこえた日常性の背景である劫というものが、二つが記録的というところに歴史の具体性というものがある。何月何日は日常であるがその意味は日常を超えている。だからして注意してみれば我々は日常的時間を単に日常的に過ごしている、だから何月何日ということもすぐに忘れてしまう、親鸞が記録したのはその時点ということを、時間ということを非常に真面目に生きたということ、日常的時間を日常的に過ごさなかった、何時であったかというようなことはない。其時現実の問題を如何に責任をもって生きたかということがわかる。つまり日常の時間を実存的に生きた、それ故にその日常の時間が神話的に現わされなければならんような深い意味をもっている。日常的を神話的に生きた、それが実存的時間というものである。」 (つづく)

            ―         ・       ―

 今日の命に関わる諸問題に対して、安田先生は示唆に富んだ講義をなされていました。原発にしても、私たちが生み出したものであり、また私たちが再稼動を促したという責任があります。若し原発事故が起こらなかったなら、原発の安全性を強調し、原発に対して何等の問題意識ももたずに過ごしてきたのではないでしょうか。少なくとも私は原発に対して何等の反対の意見を言ったことはありません。以前にチェリノブイリ原発事故があったにもかかわらずです。対岸の火事として、自分とは無関係であるという視点からです。この視点の問題が「生活の為に」という大義名分で原発行政を推進してきたのではなかったのでしょうか。そして今、その渦中にいる一人として、現実の問題に如何に責任をもって生きるかということが問われているのだと思います。「原発を生み出した私とはいったい何者だ」ということを問う一日としたいのです。今から聞思洞研修会(池田市住吉・順正寺)に出かけます。 (河内 勉)


第二能変  第二・ 二教六理証 その(85)  第六・ 我執不成証 (⑳) 

2012-06-16 21:01:51 | 心の構造について

 我執を帯びた第六識を、有部等は縁縛といい、法相唯識では相縛といいます。そして縁縛を破すのが唯識の立場になります。我執を帯びた第六識は所縁縛ではない、ということですね。

 「過去や未来の煩悩の縁によって、現在の善や無記心が縛されるというのは道理ではないという。・・・相縛は何かに区別していう。多分、縁縛と区別するのではないか。」(安田理深師)

 「善悪無記の心は、六識のあらゆる場合ということである。いかなる心を起こしても、異生の六識は我執とともにある。第五(無想有染証)は特殊な凡夫である。第六(有情我不成証)はもっと広い。有心の三界の異生、その場合の衆生を取り出して考えたのである。あらゆる場合に異生を異生たらしめているのは、常に我執が起こっていなかればならぬが、常に起こっている我執は常に起こっている識以外に根拠は無い。六識では求められぬ。説く識は転易する。それで転識という。無記や善の場合に矛盾が起こる。無記や善心の起こった場合に、我執は起こるわけにはゆかぬが、事実は無記や善心の起こっている場合も凡夫である。

 さきに相縛の問題に触れたが、これは我執の相応している末那によって第六識に相縛がある。第六識というものはそこに内容が実体化されているから、つまり依他起性である意識の内容を遍計所執としているから、それによって第六識が縛られている。相縛は染汚の末那識によってそうなっている。」(『安田理深選集』第三巻、p210~211)

 その三は、有部等の再反論を予想して論破(更に転救を破す)する一段です。

 「他の惑に由りて有漏と成るものには非ざるが故に。他の解(げ)に由りて、無漏と成るものにはあら勿(ざ)るが故に。」(『論』第五・十四左)

 有部等の再反論の想定は『論』には記述はありませんが、『述記』に記載されています。『論』にはその答えが述べられているのです。 (他者の煩悩によって、善・無記の心が有漏になるものではない、また他者の解(さとり・智慧)によって、無漏となるものではないからである。)

「論。非由他或至成無漏故 述曰。彼若救言如無學身雖非己身現有煩惱。然由現在他縁縛故。成有漏者。此亦不然。非由他惑成已有漏 若彼救言何爲不得。故應難云。勿由他解成己無漏。如何有漏由他漏成。此薩婆多等死訖。」(『述記』第五末・三十九右。大正43・414c)

 (「述して曰く。彼もし救して無学の身の如き己身に現に煩悩有るに非ずと雖も、然れども現在に他の縁縛するに由るが故に有漏と成るが如しと言わば、此れ亦然らず。他の惑に由って己が有漏と成るには非ず。若し彼救して何の為に得ずと言わば、故に応に難じて云うべし。他の解に由って己が無漏と成ること勿れ。如何ぞ有漏他の漏に由って成ぜん。此れ薩婆多等死け訖んぬ。」)

 有部等の再反論は「無学の身の如き己身に現に煩悩有るに非ずと雖も、然れども現在に他の縁縛するに由るが故に有漏と成るが如し」と。自分の身に煩悩がなくなった無学の身であっても、他者からの縁縛によって有漏となるようなものである。従って末那識を説かなくても、六識の善・無記の心が有漏となることの説明はつくのである、というものです。

 この有部等の再反論の再論破が『論』の記述になります。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(84)  第六・ 我執不成証 (⑲) 

2012-06-15 22:57:42 | 心の構造について

 「去来の縁縛は理いい有に非ざるが故に。」(『論』第五・十四左)

 (過去・未来の縁縛は、理からして有(存在)ではないからである。)

 有部等の反論は『述記』に述べていましたが、有部等は三世実有法体恒有を説いているのは周知のことであり、その説から、

 「現在の善は、過去の煩悩が縁となって発生し、また、未来の煩悩が、現在の善を縁じることにおいて、六識の善心や無覆無記心は有漏となる。」(「由前及後去来煩悩発故、縁故此善等成有漏」) 

 と述べているのです。それに対する論破が本科段になります。

 過去・未来は現存在ではない、現存在ではない限り、現在への縁縛はあり得ないのである、と。

 有部は相縛とはいわないのですね、縁縛(所縁縛)といっています。所縁縛とは、所縁(認識対象)に束縛されることです。相応縛・所縁縛という、心はこの二つに束縛されることが有る、という。ここに、過去と未来を持ち出してくのです。過去や未来の煩悩の縁によって心が縛せられるというのです。しかし、現存在でない過去や未来の煩悩の縁によって、現在の善や無覆無記心が束縛されるのは理にかなわないと述べています。縁縛に対して相縛という、これは、末那識に依るわけです。即ち末那識によって一切の六識が有漏になるということを明らかにしているわけです。

  「論。去來縁縛理非有故 述曰。其世體無猶如兎角。故縛無也。」(『述記』第五末・三十九右。大正43・414c)

 「述して曰く。其の世は体無きこと猶し兎角の如し。故に縛無きなり。」

 

 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(83)  第六・ 我執不成証 (⑱) 

2012-06-14 23:42:37 | 心の構造について

 「述して曰く。第二に他を破すに三有り。一に一切有等を破す。二に大衆部等を破す。三に経部を破す。重ねて我執有りと云うことを成ず。諸法の有漏と成ずることは皆第七に由るが故に。所以はいかん。要ず自身の煩悩と倶なる者、方に有漏と成るが故に。善心と無覆とに既に煩悩と倶ならざるをもって有漏と成らざるべし。彼第七識無しと説くを以ての故に。」

 諸部派を論破する一段になりますが、其が三つに分けられて説明されます。一に説一切有部等の説、二に大衆部等の説、三に経量部の説を論破します。この科段はその一になります。諸法が有漏となるのは第七末那識に由るのであるということを明らかに説いています。

 間違っているのかもしれませんが、私論です。私たちの一切の行動は煩悩に依るということではないのか。三性のすべてが煩悩に依って引き起こされるのである、と。聞法も煩悩のなせる業であるということです。ということはですね、煩悩もただ煩悩であるということではなく、法に由って明らかにされたもの、ということになるのではないかと思うのです。今日もですね、三夜連続の法話会が難波別院でありましたが、法話会に行くという行動と、聞くということはですね、やっぱり自分の思いなのではないでしょうか。話を聞いた後に自分の判断が下されるのでしょう。今日の話は良かったとか、つまらなかったとか、自己中心的に判断しています。よく、寺に行くというのは自分の思いではなく、行かしめている働きがある、ということを聞くのですが、これでは焦点がぼけてしまうのではないかと思うのです。行くということ、或いは行かないということ、共に煩悩の働きであるということをはっきりとさす必要があるのではないかと思います。大事なのは法を聴くということにおいて、「自己中心的に思いあがっていた」という懺愧心を頂くことではないでしょうか。そうでなければ、聞法することが善で、聞法しないことが不善であるという構造になります。聞法することも本当のことを知りたいという欲求であり、聞法しないことも又本当のことを知りたいという欲求に他なりません。知りたいという欲求は煩悩なのですね。そしてこの煩悩が転じられて浄土願生という清浄意欲になる、ということではないでしょうか。後で説かれますが、末那識はただ末那識ではなく、出世の末那といわれるように、この恒に審に思量する我執が平等性智という智慧に転換されるといわれているわけです。法性によって見出された意識が末那識なのですね。それ以外に末那識を解明する手立てはないのでしょう、若し解明されたとしたらそれは机上の空論でしょうね。生れたということは分別をもって生み出されたということでありましょうが、分別をもったということは、分別の無い世界から生み出されたということでもあるのではないでしょうか。だから私たちは苦悩を抱えているのではないでしょうか。真実の世界、浄土と言い換えてもいいと思いますが、浄土からの催促が私の上に願われているものであるということになりましょう。このことが煩悩のもっている意味であると思うのです。このことを大乗の論師は命をかけて戦い明らかにしたのでしょう、第七末那識の発見です。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(82)  第六・ 我執不成証 (⑰) 

2012-06-13 23:37:28 | 心の構造について

 「問う、若し爾らば二乗の無学の(有漏の)五・八にも相縛有るべし、幻と了せざるが故に。答う、二の解有り。一は云く、染の意(第七我執)滅するが故に。五・八には縛無し。二は云く、既に有漏所生の相分を縁ず。是れ分別の相なるをもって猶、是れ相縛なり。似の有漏の昔、第七の漏と倶にして漏を成ずるに由って、(二乗無学)染の七の無き時にも、五・八の二識は仍し有漏に摂むるが如し。相縛も然るべし。」(『了義燈』)

 以上の理由に由ってですね、「このような染汚の末那識は、これは識の所依である。この末那識が未だ滅しない時には、識の縛をついに脱することはない」という。「この識」の識は六識を指す、といわれています。ですから『無性摂論』の伽陀の意味は、末那識は六識の所依であり、末那識が滅しないうちは、六識の相縛は、ついに脱しない(消滅しない)という。『樞要』は「末那を識縛の本と為す」と述べられています。

 第二は他学派の説を論破する。初は、有部等を論破します。

 「又、善と無覆無記との心の時に若し我執無くんば、有漏に非ざるべし。自相続の中の六識の煩悩は、彼の善等と倶起せざるが故に」(『論』第五・十四左)

 (また善と無覆無記との心の時に、もし我執がなかったならば、それは有漏ではないであろう。自相続の中の六識の煩悩は、六識の善等と倶起しないからである。)

 善と無覆無記との心の時に、末那識の我執が六識の下で働き続けなければ、有漏になることはなく、無漏になるという。末那識の存在によって、善や無覆無記の心も有漏となるのである、と。しかし有部等からの反論は「前と及び後との去・来の煩悩に由って発するが故に縁(縛)するが故に、」という、即ち末那識の我執に由って有漏になるのではなく、善や無覆無記の心に、さらに煩悩が存在し、六識を有漏にしているのである、と。それに対して、そうではなく六識の煩悩と六識の善や無覆無記とは倶起しないのであるから、有部等の反論は成り立たないと論破しているのです。

  「論。又善無覆至不倶起故 述曰。第二破他有三。一破一切有等。二破大衆部等。三破經部。重成有我執。諸法成有漏。皆由第七故。所以者何。要與自身煩惱倶者方成有漏故。善心・無覆。既與煩惱不倶。應不成有漏。以彼説無第七識故 若彼薩婆多等。言由前及後去・來煩惱發故。縁故。此善等成有漏者。不然。」(『述記』第五末・三十八左。大正」43・414b~c)   (つづく) 


第二能変  第二・ 二教六理証 その(81)  第六・ 我執不成証 (⑯) 

2012-06-12 22:58:35 | 心の構造について

 善行を起こすのも煩悩であるというのですね。善行を起こしたという分別が瞬時に働いているのですね。第六意識の我執によって引き起こされるということなのです。そして、第六意識の我執は、第七末那識の我執を所依止としているのです。所依止としているから、第六意識の我執は第七末那識の我執によって増明されるということになります。

 「問う、諸論に但だ云う、六識の中に相を亡する能わざらしむとも、如何ぞ今、八識に通ずと説けるや。答う、彼は三輪に拠って第六識のみにあらしむ。我を執するに由るが故に。前の六識をして皆相の為に拘(かかわ)されて幻と了せざらしむ。故に第七か八を縁ずるも亦、相の為に拘せられたり。相縛の本なるが故に、皆是れ相縛なり。若し七が我を執するを相縛と名づけば、六識を如何ぞ相縛と名づくることを得んや。又、此の論に云く、相縛と言うは、謂く境の相に於て幻事等の如しと了達すること能わず。斯に由って見分いい相分に拘されて自在を得ず、故に相縛と名づくといえり。此を以ての故に知りぬ、八識に通ずといえり。」(『了義燈』)

 相縛の意味について述べています。『論』には「相縛と言うは、謂く、境相の於に幻事等の如しと了達すること能わざるぞ。斯に由って、見分いい相分に拘されて自在を得ず、故に相縛と名く。」と説かれていました。この文は『瑜伽論』巻第五十一に「染汚の末那を識の依止と為す、彼未だ滅せざる時には、相に了別いい縛せられて解脱することを得ず、末那滅し已るときに、相縛を解脱すという。」と述べられていることの意味を明らかにしているのです。境は、縁起によって起こるわけですから、幻のようなものである、というのです。境は実体として存在するものではないということです。私が認識した時に境は存在するということですね。依他起証の存在です。しかし、それを理解することが出来ない為に、実体として拘束されてしまうのです。拘束されてしまう為に自在を得ないのです。これを相縛という、と説明しています。


第二能変  第二・ 二教六理証 その(80)  第六・ 我執不成証 (⑮) 

2012-06-11 22:09:28 | 心の構造について

 『了義燈』は次に相縛について問答を設けて明らかにしています。相縛は、我執を帯びた第六識を相縛というのですが、更に『論』では相縛は有漏であるということを明らかにしているのです。三性において有漏であると。相に縛されること、相分が見分を縛することですね。相縛の体は煩悩障であると説かれています。

 「問う、相縛と言うは、煩悩障とや為ん、所知障とや為ん。答う、設し爾らば何の失あらん。二つながら倶に過有り。若し煩悩障に由るといわば、二乗の無学の有漏心の位には相縛無かるべし。我執断ぜるが故に。若し所知障に由るといわば、(二乗の)生空の後智に相縛有るべし。

 二の解有り。一に云く、所知障に由る、若し爾らば生空の後智にも縛有るべし。答う、相い順ぜざるが故に。安慧の釈に依らば、此れを即ち、正と為す。二に云く、煩悩障を以て相縛の体と為す。若し爾らば二乗の無学の有漏の善・無記心には相縛無からべし。答う、此の相分の体は是れ有漏にして是れ彼(有漏善心)に引かれて種を熏成するが故に。今(無学位)彼の我執の体を断じ盡すと雖も、相縛有るに由る。然るに法執の体は正しき相縛には非ず。相有りと執するが故に。依と為って彼の我執を助けて起こる。故に是れ助の相縛なり。無学の散の善と及び無記心とは亦、此の助有るを以て、未だ相縛を離れず。生空の後得は其の助有りと雖も、昔の有漏の所熏の相たる正しき相縛無きが故に無しと云うを得。此の釈を正と為す。

 然るに、三輪の相を執するは、唯、第六識のみなり。五・八は任運なり。第七は内に縁ずるが故に。若し有漏の相を名づけて相縛と為せば即ち八識に通ず。」(『了義燈』)

 三輪清浄の相状を執着するのは、第六識である、と。三輪清浄の実践において、その相状を六識中にとらえ、その相状を認識した第六意識の我執によって、その相状を亡くすことが出来ないのである。『述記』はその理由を、第六意識の我執によって、施等の実践を起こすと述べています。その時に、第七末那識が内に向かって阿頼耶識を我であると執し、その為に、施等を実践する時、分別の相が生じるのである」と説明しています。分別が生じるということは、相状は雑染であり、有漏であるわけです。善を行っても有漏善となるといいます。

 「外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、中に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして、悪性侵め難し、事、蛇蝎に同じ。三業を起こすといえども、名づけて「雑毒の善」とす、また「虚仮の行」と名づく、「真実の業」と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行を作すは、たとい身心を苦励して、日夜十二時、急に走め急に作して頭燃を灸うがごとくするもの、すべて「雑毒の善」と名づく。この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲するは、これ必ず不可なり。何をもってのゆえに、正しくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまいし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心の中に作したまいしに由ってなり、と。おおよそ施したまうところ趣求をなす、またみな真実なり。」(『信巻』真聖p215)

 本願に遇うことを通して自身の虚仮不実の姿が浮き彫りにされるのです。善は行じなければなりません。雑毒の善だから、何をしてもいいということではないのです。それは造悪無碍という過失になります。善を行じても、自分から出る行為には我執の働きが帯びており、その影響で雑染となるということの自覚です。  (つづく)


『下総たより』 第三号 『再会』 追加(1) 安田理深述

2012-06-10 20:33:22 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 『再会』 追加 (1) その①

 「種子現行の関係は因果同時、同時ということが過去も過去という現在、未来も未来という現在、本来的時間性、この現行は一瞬、現在といえば一刹那、現行一刹那ということは世界は一刹那よりない、我々の存在はひといきにあって、息を吸う息の中に人生がある。種子というところに異時、いつでも一年、それが異時、連続一念を引延ばすのが多念でない。いつでも一念ということが多念、種子と現行は論理的意味でない。存在の因果であるが、併しそれはただ異時でない、ただ同時でない、時間というものは存在の時間、時間的在り方をして存在しているものは種子現行。種子は本願、現行は大行、本願の現行を通して本願にかえる、現行を通して本願に目ざめる。

 後序では時間というものが何月何日という暦の形であらわされている。前序の方では時というものが劫というようなものを単位にしている時間で現されている。億劫、多生曠劫、一方は日常時間、一方は神話的時間、これによって日常的時間というものが単に日常的でない。神話的時間という意味をもっているとともに、神話的時間はまた日常的時間として具体化されている。こういうように意味と意味の充足、そういう関係で両者がつながっている。こういう意味で時間、時というものの意識というものが現されている。つまり本願の時間というものが、こういう形で日常的であるとともに神話的であるという形で、本願の時間というものが現されているところに意義をもっている。

                                    (つづく)