「去来の縁縛は理いい有に非ざるが故に。」(『論』第五・十四左)
(過去・未来の縁縛は、理からして有(存在)ではないからである。)
有部等の反論は『述記』に述べていましたが、有部等は三世実有法体恒有を説いているのは周知のことであり、その説から、
「現在の善は、過去の煩悩が縁となって発生し、また、未来の煩悩が、現在の善を縁じることにおいて、六識の善心や無覆無記心は有漏となる。」(「由前及後去来煩悩発故、縁故此善等成有漏」)
と述べているのです。それに対する論破が本科段になります。
過去・未来は現存在ではない、現存在ではない限り、現在への縁縛はあり得ないのである、と。
有部は相縛とはいわないのですね、縁縛(所縁縛)といっています。所縁縛とは、所縁(認識対象)に束縛されることです。相応縛・所縁縛という、心はこの二つに束縛されることが有る、という。ここに、過去と未来を持ち出してくのです。過去や未来の煩悩の縁によって心が縛せられるというのです。しかし、現存在でない過去や未来の煩悩の縁によって、現在の善や無覆無記心が束縛されるのは理にかなわないと述べています。縁縛に対して相縛という、これは、末那識に依るわけです。即ち末那識によって一切の六識が有漏になるということを明らかにしているわけです。
「論。去來縁縛理非有故 述曰。其世體無猶如兎角。故縛無也。」(『述記』第五末・三十九右。大正43・414c)
「述して曰く。其の世は体無きこと猶し兎角の如し。故に縛無きなり。」