第二に、他を破す。(有漏の問題に答える) この科段が三つに分けられ説かれる。一に、有部等を破す。二に、大衆部等を破す。三に経量部等を破す。
初めに、有部等を論破する。
「又善と無覆無記との心の時に若し我執無くんば、有漏に非ざるべし、自相続の中の六識の煩悩は、彼の善等と倶起せざるが故に。」(『論』第五・十四左)
(また善と無覆無記との心の時に、もし我執がなかったならば、それ(善と無覆無記との心)は有漏ではないであろう。何故ならば、自相続の中の六識の煩悩は、六識の善等と倶起しないからである。)
「自相続の中の六識の煩悩は、六識の善等と倶起しない」とは、善心に不善心は並び立たない、ということです。『菩薩瓔珞本業経』を『述記』(巻第九末。大正43・561b)は引用して説いています。善心と無覆無記は、煩悩と倶起しないということです。それならば、何故に、善心と無覆無記である時に有漏となるのかという問題が起こります。その答えが、我執です。我執に依って、六識を染汚し、六識の善心と無覆無記心を有漏にしていくのです。
お詫び、 昨日の記述で、『樞要』、『了義燈』の釈を欠落しました。明日述べることにします。又、本科段の『述記』の釈は改めて述べます。