唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(93)  第六・ 我執不成証 (28) 

2012-06-27 22:47:37 | 心の構造について

 有漏の義について、『樞要』及び『了義燈』の所論を記述します。

 『樞要』(巻下本・二十七右。大正43・640c)

 「下文雖由煩惱引施等業。而不倶起。非有漏正因。即顯縁縛等非有漏正體。六十五説。現量所行有所縁縛。其清淨色・不相應善・及一分無記心心所。非有所縁縛。但由隨眠名有漏。與煩惱種倶者。此依別義。亦不相違等廣説太精。應取彼會。即顯五境有所縁縛。餘根心等即無是義。但顯與此表有漏倶言相順。然與五十九斷二縛義相違。由此所縁縛有二。一親。唯現量所行。二疎。即淨色等。展轉心・境互相増故。言淨色・善心・一分無記等非有所縁 縛者。據親相分非。故此論下第八等。説二縛斷等者。依疎義説。不爾便與二論相違。更勘和會。既言雖由煩惱引施等業而非正因。我能行施。明但相縛。非有漏因。如斷縁縛。雖斷見道及修前八。以未全盡。不名爲斷。有漏應然。如縁一色。五識及意二所縁縛。並以第七識與漏倶。言要至金剛方可斷盡。此如修道初品所斷。雖亦爲後八品惑縛。然得名斷。以自力強故。有漏亦爾。縁縛・相應二力。増上故説。未斷第七亦名爲斷 若爾何故前二既勝。 何故不爲有漏正因而取漏倶。或復縛據二縛。有漏據漏倶。斷依二縛。故可説斷。不約漏倶説斷。亦不相違 無始法爾種子。不曾現起與第七倶。云何得成有漏。不要現行與第七惑倶方名有漏。若種・若現無始皆與第七惑倶。互相増益。相隨順故。並成有漏。非無漏種亦能相順。又言法爾不要七倶。非法爾者。必倶増益。然六十五等有漏・無漏義等。如下第八卷釋」

 『了義燈』(第五本・十五右~十七左。大正43・748c~749a)

 「以有漏言表漏倶故。有漏有三。一體是漏爲有所有名爲有漏。即三漏中言有漏。是有者三有。此説上界内身爲有。以上二界縁身起愛離外境貪故。有之漏名有漏。即二界煩惱名爲有漏。漏是所有。二有他漏故名爲有漏。即説能有。三者漏性合故名爲有漏。亦煩惱自體。由此漏在生死中故即體有用名爲有漏 今者此間表漏倶者。取能有體名爲有漏不取煩惱。故前偏難云。又善・無覆無記心時。若無我執應非有漏。瑜伽但説有他漏故。雜集通説 問若與 漏倶方成有漏。即與雜集第三・瑜伽六十五皆悉相違。彼二論文不唯漏倶名有漏故 二論云何 且對法云。漏自性故。漏相屬故。漏所縛故。漏所隨故。漏隨順故。漏種類故 初漏自性故即煩惱體。漏性合故名爲有漏。由此自體漏在生死名漏性合。餘之五種由此自性名爲有漏 漏相屬者。與漏相應及漏所依。即染汚心・心所名相應。遍行・別境及前七識與*或倶者眼等五根名漏所依 所縛者。謂有漏善法。由漏勢力招後有故。此中亦攝六外境・無記心。且據善説 若准瑜伽。過未有漏法善・無記心皆非所縛。及現外境非現量縁亦非所縛者。彼據質説。過・未無故。善・無記心非漏相應。漏心縁時在過・未故。現色若非現量心縁。不親杖質説非所縁 對法論據親相分及疎所縁説亦成所縁。同六十六。斷縁縛説。各據一義故不相違漏所隨者。謂餘地法。不互相増故。漏隨順者。順決擇分。異地不増。同地得増。容漏倶故。若無漏者非隨順故。有漏之者雖増背有。然與漏倶。不爾漏倶非漏目故 。或雖漏倶而不増益。稱損力益能轉故。然成有漏言増益者據餘漏説。漏種類者。無學諸蘊。前生煩惱之所起故。瑜伽六十五説有漏差別。由五相故。謂事故・隨眠故・相應故・所縁故・生起故。事謂清淨諸色三性心・心所。此是能有諸漏體事。隨其所應由餘四相説名有漏。謂隨眠故・相應故・所縁故・生起故。即前諸法煩惱未斷所有種子説名隨眠。彼由此種説名有漏。諸染心・心所由相應故説名有漏。若諸有事現量所行。若有漏所生増上所起。如是 一切漏所縁故名爲有漏。現在名有事。若依清淨色識所行名現量所行 此據貪等能現量縁彼色等境名漏所縁。餘非所縁。論云但由自分別所起相起諸煩惱。非彼諸法爲此分明所行境故。故如前會 由生起故成有漏者。隨眠未斷順煩惱境現在前故。此據惑引 又云。從一切不善煩惱。諸異熟果。及異熟果増上所引外事生起。亦生起故説名有漏。此有漏果爲依所生亦名有漏五聚之法於有漏位三性之中。依雜集六・瑜伽五義各具幾義名爲有漏。如樞要下卷 解十二支三斷中辨。准此二文。不唯漏倶名爲有漏 答此據正因。5被據別義。故不相違言互相増益者。問第七與六爲雜染依増益於六。六識如何増益第七 答有二義。一者増長。二者不損 若第六識發業感八爲彼依縁。得相續住故名増益 起有漏時。設雖不能増長第七。而不損害亦名増益。非如無漏起必損彼不名増長。亦如眠睡。雖於眼根不能増長。而不損害亦名長養。此亦應爾。」

 (『樞要』に云く。 「下の文に云く、煩悩に由って施等の業を引くと雖も而も倶起せざるを以て有漏の正因に非ず。即ち縁縛等は有漏の正体に非ず云うことを顕す。六十五の説に、現量の所行は所縁縛の其の清浄の色と不相応善と及び一分の無記心心所とには有り。所縁縛有るに非ず。但だ随眠に由って有漏と名づくると。煩悩種と倶なる者とは、此れ別義に依ると云う。亦相違せず等と云う。広く説いて太だ精し。彼を取って会す。即ち五境には所縁縛有り、余の根心等には即ち是の義無しと顕す。但だ此の有漏と倶と表す言と相順せりと云うことを顕す。然るに五十九に二縛を断ずと云う義と相違せり。此れに由って所縁縛に二有り。一には親の唯だ現量所行なり。二には疎の即ち浄色等なり。展転して心と境と互に相増たるが故に。浄色と善心と一分無記等には所縁縛有るに非ずと言わば、親相分に拠るに非ざるが故に。此の論のしたの第八等に二縛断等を説くは疎義に依って説けり。爾らずんば二の論と相違す。更に勘えて和会せり。既に煩悩に由って施等の業を引くと雖も正因に非ずと、我能く施を行ずと云う、明に但だ相縛なり。有漏の因に非ず。縁縛を断ずるに見道及び修の前八を断ずと雖も、未だ全く盡きざるを以て名づけて断となさざるが有漏も応に然るべし。一色を縁ずるときは、五識と及び意との二所縁縛並に第七識と漏と倶なるを以て要ず金剛に至り方に断盡すべしと言う。此れ修道の初品の所断の如し。亦後の八品の惑の為に縛せられたると雖も、然に断と名づくることを得。自力強なるを以ての故にという。有漏も亦爾なり。縁縛と相応との二の力は増上なるが故に、未だ第七を断ぜずとも亦名づけて断と為すと説く。若し爾らば何故ぞ、前の二は既に勝れたり。何故に有漏の正因となさずして、而も漏と倶なるを取る。或は復は縛は二縛に拠るに、有漏は漏と倶なるに拠ると云う。断ずることは二縛に依るが故に。断と説く可し。漏倶に約して断と説かず。亦相違にあらず。無始法爾に種子は曾より現起せずして第七と倶なり。云何ぞ有漏を成ることを得るが要ず現行して第七の惑と倶なるを方に有漏と名づけず、と。若しは種にも若しは現にも無始より皆第七の惑と倶にして互に相増益して相随順するが故に。並びに有漏と成る、無漏の種は亦能く相順っするに非ず。又言く、法爾は要ず七と倶にあらず、法爾に非ざるは必ず倶にして増益す。然るに六十五等の有漏無漏の義の等は下の第八巻に釈するが如し。」)       (つづく)