「是の如き義に依って、有る伽他に言く。 是の如く染汚の意は、是れ識が所依なり、此の意未だ滅せざる時には、識の縛を終に脱せずという。」に就いて、『述記』の釈は既に述べましたので、『了義燈』の釈を伺いたいと思います。
『了義燈』第五本・十一右。(大正43・747c03~748c08)
「論に「我と執ずるに由るが故に、六識の中に等」とは、疏に二の解有り、後の解を取って正とす。西明は、前のを取る。要集も亦同なり。今(『了義燈』)に謂く、後の釈を勝と為す。我執に由るが故に。相を亡すること能はざれば、我(第六)は能く施等を行ずと云へり。豈に第七の我いい施等を縁じて、生ずるを我能く施すと言はんや。故に本疏の意は、此の第六の我は第七の我を所依止と為るに由って、行相増明なり。」
疏に述べられている二解とは『述記』が引用した『無性摂論』の「我、よく布施等を行ずる」という一文についての解釈になります。
第一解 - 我とは、内縁の我で、末那識の我であるという(末那識が阿頼耶識を認識し執着することにより生起する我執による我)。六識中に末那識の我執による我が顕れるという。
第二解 - 我とは外縁の我、第六識の我執による我であるという。「我能く施等を行ずる」とは、あくまでも第六識の我執に依って起こされる我である、というのが正とする解釈になります。
『述記』の本意は、第六識の我執は、第七末那識の我執を所依止として存在するので、所依止である末那識の我執によって、増明(増強)されるという。内縁の我・外縁の我は末那識の我執・第六識の我執ですが、布施等の善行を行ずるという場合に直接的に末那識の我執が働いているということではないのです。末那識の我執は阿頼耶識の見分を認識対象としているわけですから、外に向かって働いているわけではないのですね。布施等の善行は、第六識の我執が、善行を認識し意識させるといわれています。この第六識の我執は第七末那識の我執を所依止として増強されると説いています。
『論』には「謂く、異生の類は、三性心の時に、外には諸業を起こすと雖も、而も内には恒に我と執ず」 と。
このところの解釈は非常に大切なことを私たちに教えています。私たちがいかに自己中心性であり、自分の思惑で動いているのかが如実に知らされています。末那識が「恒に審に思量する」ということの具体性が示されています。
末那識が阿頼耶識の見分を我と認識し執着することにおいて、第六識の善行を有漏善としてしまうのです。「わたしは布施等の善行を行っている」という分別相を現すのです。この分別は雑染ですから、心を穢してしまうわけですね。私は布施等をしている、という傲慢と慢心が起こるのですね。末那識の我執の働きに由って、第六識の我執が引きずられ増明されるのです。
(第一解の過失について述べる)
「我施すと云うは是れ第七の我には非ざるなり。若し三輪の相を執するを、是れ第七の我なりといわば、七地已前に有る時に未だ伏せず。何に況や地前に既に伏すること能はざるをや。」
第七末那識の我執が直接的に働いているのであれば、七地已然には、善行を行っているという相を亡くすことができなくなる。要するに三輪清浄の善行を実践することは不可能であるということになるのです。
(つづく)