唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(75)  第六・ 我執不成証 (⑩) 

2012-06-02 23:05:58 | 心の構造について

 「煩悩とか悪業とか、そういうことをいっても真宗にならぬ。悪人だといっても裏からいっただけで、どちらも凡夫の思考法である。煩悩悪業は、悩ますという悪意あるものではない。業道自然の実相は無為自然なのである。業は別に、我々をいじめるという悪意があるわけではない。貧困であるような条件がそろった時に貧困になるのは、無為自然である。それを、貧困が苦しめると解釈する。その解釈の成り立つ地盤が凡夫である。その解釈で苦しむ。貧困の解釈で苦しむ。善悪でもそうである。実体化された善悪、それに拘束される。人間は当たり前というが、当たり前ではない。意識内容を実体化することによって、意識作用が縛られる。こういうのを相縛という。

 やはり、諸法実相に触れた智慧をもつというのは、識が識自身の自由を回復することである。意識しても意識に縛られぬことであって、意識をやめるのではない。理性を捨てることではない。理性というのが人間独自の意識である。だから信仰は、人間が人間以下になるのでなく、理性が自在になることである。真に理性をもつものになる。ところが、理性にもたれている。しかし、理性は遅かれ早かれゆきづまるものである。現実派理性の通りにはならないのだから。もったものに縛られる。それは理性を絶対化するからであり、理性に無制限を許したからである。理性で解釈されたものを、本来のものだとするからである。

 相縛ということは、染汚の末那識によって、第六識の相縛が成り立つのである。このことは『摂論』には無い。『成唯識論』の六理の論証の内容が『摂論』と変わってくるのは、無性の釈論を通すことからくるのである。六識の相縛は、末那識の我執による。異生の心は、染・善・無記、いずれの場合でも相縛がある。善をしても、善をしたことを覚えている。施とは捨である。捨て切ることである。それを施をしたと意識して、その結果を求める。だから慈善にはなっても、施波羅蜜にならぬ。依他起の実相を知る智慧によらぬと、施波羅蜜にならぬ。

 さらに続いて、有漏ということをいう。異生の善は有漏の善である。第六識であるなら、善心の場合に有漏ということは成り立たぬ。有漏というのは、煩悩と一緒であるということ、「有漏の言は漏と倶なるを表す」。第六識であるならば、善心が有漏というときには、善心であるとともに煩悩が起こらねばならぬことになるが、第六識では善心と煩悩とは一緒に起こりえない。だから、第七末那識の煩悩によってのみ、有漏であることが可能であるという。」

 『安田理深選集』第三巻、p205~206より。 次回は六理証全体に関わる諸問題について述べます。