(「述して曰く。彼れ若し救して先の時の善等の位に煩悩と倶に生ずること有ること無しと雖も、漏の種子、善等の種に随逐するに由るが故に。善等の種、有漏と成ると言わば、然らず。学の無漏心亦有漏と成ること勿れの故に。無漏の種子と倶には亦有漏の種も逐すとも、無漏の法は有漏とは成らず。有漏の善等の種如何ぞ有漏と成らん。
我が大乗宗は無漏は現行の煩悩の我執と倶ならざるが故に。種いい逐すること有りと雖も、無漏の法は有漏とは成らず。有漏の善等此れと相違せり。故に有漏と成る。汝が宗に如何が善等有漏と成らん。
問う、『対法』(第三巻)に云うが如し、漏に縛せらるるは有漏善法ぞ。漏に随わるとは即ち余地の法ぞ。漏に随順すとは決択分の善ぞ等と云えり。彼れ豈皆、漏と倶起するが故に有漏と名づけんや。此れ等の疑を答せんが為に。」)
随逐は、煩悩の種子が、善等の種子にまとわりついて、という意味で、その為に、善等の種子が有漏となる、と経量部は主張しているのです。しかし煩悩と善とは相応しないのですから、この主張そのものに矛盾が生じています。そしてこの矛盾は、有漏の善の種子は、いつ有漏になったのか説明がつかないことになる、と護法は論破しています。
有漏について、『対法論』の記述は、「且對法云。漏自性故。漏相屬故。漏所縛故。漏所隨故。漏隨順故。漏種類故。」(『了義燈』第五本・十五右。大正43・748c)
- (1) 漏の自性であるから、
- (2) 漏の相続であるから、
- (3) 漏の縛する所であるから、
- (4) 漏に随うものであるから、
- (5) 漏に随順するものであるから、
- (6) 漏の種類であるから、
と説明されています。この六義には、漏と倶であるから有漏となるとは述べられているものではなく、しかし『論』では漏と倶であるから有漏となるといわれていました。この相違について、問いが立てられ、次の科段において説明されます。