唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(94)  第六・ 我執不成証 (29) 

2012-06-28 22:39:49 | 心の構造について

 今日は『了義燈』の文章を読んで見ます。

 「有漏の言は漏と倶と表すを以ての故に」と。有漏に三有り。一に体是れ漏にして有の為に有せられるを名づけて有漏と為す。即ち、三漏の中に有漏と言うは是れ有なりというは三有なり。此れは上界の内身を説きて有と為す。上二界は身を縁じて愛を起こすは外境の貪を離れたるを以ての故に。有か漏なれば有漏と名づく。即ち二界の煩悩を名けて有漏と為す。漏は是れ所有なり。二に他の漏を有するが故に名づけて有漏と為す。即ち能有を説くなり。三には漏性と合うが故に。名づけて有漏と為す。亦、煩悩の自体なり。此の漏に由って生死の中に在るが故に。即ち、体いい用を有するを名づけて有漏と為す。今、此の間に漏と倶なることを表すというは、能有の体を名づけて有漏と為することを取る。煩悩を取らざるが故に。前に偏に難じれ云う、又、善と無覆無記との心の時には、若し我執無くんば応に有漏に非ざるべし。瑜伽には但だ他の漏有るが故にと説く。雑集には通じて説けり。

 (異説の相違を挙げる・広く異説を出す)

 問、若し漏と倶なるを以て方に有漏と成ると言わば、即ち、雑集の第三と瑜伽の六十五と皆悉く相違しぬ。彼の二の論の文には唯、漏と倶なるを以て有漏とは名づけざるが故に。二論、云何となれば、且く対法(巻第三)に云く、(漏の六義を挙げる)

  1.  漏の自性なるが故に、
  2.  漏と相属せるが故に、
  3.  漏の縛せる所なるが故に、
  4.  漏の随せる所なるが故に、
  5.  漏に随順せるが故に、
  6.  漏の種類なるが故に、

 と云えり。

 (第一に) 初の漏の自性なるが故に。即ち、煩悩の体なり。漏の性と合するが故に名づけて有漏と為す。此の自体の漏に由って生死に在るが漏の性と合すと名け、余の五種は此の自性に由って名づけて有漏と為す。

 (第二に) 漏相属とは、漏と相応すると、及び漏の所依となり。即ち、染汚の心・心所を相応と名づく。遍行と別境と及び前七識との惑と倶なる者なり、眼等の五根を漏の所依と名づく。

 (第三に) 所縛とは謂く有漏の善法なり。漏勢力に由って後有を招くが故に。此の中に亦、六の外境と無記心とをも摂めたり。且つ善に拠って説けり。若し瑜伽(巻第五十五)に准ぜば過・未の有漏法と善と無記の心は皆、所縛に非ざると、及び現の外境の現量に縁ずるに非ざるとも、亦、所縛に非ざるというは、、彼は質に拠って説けり。過・未は無なるが故に。善・無記心は漏と相応するに非ず。漏心が縁ずる時は過・未に在るが故に。現の色の若し非現量の心いい縁ずるに、親しく質に杖(よ)らざるを以て所縁に非ずと説けり。対法論は親相分及び疎所縁に拠って説くを以て亦、所縁を成ずと云う、五十九に縁縛を断ずと説くと同なり。各々一の義に拠るが故に、相違せず。

                (第四)以降は明日読みます。


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