唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(79)  第六・ 我執不成証 (⑭) 

2012-06-09 23:22:28 | 心の構造について

 善行は、七地以前の有漏心の位でも、相(相状)をなくす六波羅蜜の実践は可能であると説かれています。善行は第七末那識の我に依るのではなく、あくまでも第六識の我執によって起こる我であるわけです。

 「我施すと云うは是れ第七の我には非ざるなり。若し三輪の相を執するを、是れ第七の我なりといわば、七地已前に有る時に未だ伏せず。何に況や地前に既に伏すること能わざるをや。施等の三輪は何が能く相を亡せん。故に、相縛と言うは、其の両種有り。一に一切相に通ず。第七の我に由る。二は三輪の相を執す。亦、第七に由ると雖も正しく第六を説く。然るに摂大乗は所依止(第七に)拠るが故に、自(第六)ら我能く施等を修行すと謂い、(第七恒行)無明に離れて我執随逐するに非ず、依止(第七)に離れて無明有ることには非ず等と云えり。若し即ち、是の第七の我執を説いて(三輪の)相を亡ずること能わずといわば、応に、無明に離れて我執の自性として而も能く相を執ずるには非ずと云うべし。何ぞ無明に離れて我執随逐するには非ずと云うを須いん。依止に離るるに非ざる故とは所由を説くなり。即ち是なりと説くには非ず。然るに此の論に瑜伽を引て証と為るとは、是れ通じて証するが故に。唯彼の三輪の相のみを証するには非ず。若し無漏の無分別に由って、方に能く此の相を伏すと云わば、見道前は応に波羅に非ざるべし。故に地前には有漏の加行を修して無分別智能く第六を伏すが故に、密多を成ずるなり。」(『了義燈』)

 第七末那識と第六識の関係が示されています。第七末那識は「恒審思量」といわれていますように、無間断に第八阿頼耶識の見分を我と執着するわけですから、意識の深層で意識を司る末那識の我執(恒行不共無明)によって、善行を行ったという相をなくすことはできない、ということをいっているわけです。第六意識は善行を為すことは第六識の我執であることを認識していないのです。実際には、第六識の我執が善行を行っているわけですから、善行を行っていると思った瞬間に有漏善となるのです。もともと有漏善なのですが、有漏善であるいう自覚がないわけです。すべては自己中心的な善行ということになります。この根底に末那識の問題が有るわけです。第六識の我執の根底を無明に求め、無明の根底を末那識に求めているのです。 (つづく)