唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(81)  第六・ 我執不成証 (⑯) 

2012-06-12 22:58:35 | 心の構造について

 善行を起こすのも煩悩であるというのですね。善行を起こしたという分別が瞬時に働いているのですね。第六意識の我執によって引き起こされるということなのです。そして、第六意識の我執は、第七末那識の我執を所依止としているのです。所依止としているから、第六意識の我執は第七末那識の我執によって増明されるということになります。

 「問う、諸論に但だ云う、六識の中に相を亡する能わざらしむとも、如何ぞ今、八識に通ずと説けるや。答う、彼は三輪に拠って第六識のみにあらしむ。我を執するに由るが故に。前の六識をして皆相の為に拘(かかわ)されて幻と了せざらしむ。故に第七か八を縁ずるも亦、相の為に拘せられたり。相縛の本なるが故に、皆是れ相縛なり。若し七が我を執するを相縛と名づけば、六識を如何ぞ相縛と名づくることを得んや。又、此の論に云く、相縛と言うは、謂く境の相に於て幻事等の如しと了達すること能わず。斯に由って見分いい相分に拘されて自在を得ず、故に相縛と名づくといえり。此を以ての故に知りぬ、八識に通ずといえり。」(『了義燈』)

 相縛の意味について述べています。『論』には「相縛と言うは、謂く、境相の於に幻事等の如しと了達すること能わざるぞ。斯に由って、見分いい相分に拘されて自在を得ず、故に相縛と名く。」と説かれていました。この文は『瑜伽論』巻第五十一に「染汚の末那を識の依止と為す、彼未だ滅せざる時には、相に了別いい縛せられて解脱することを得ず、末那滅し已るときに、相縛を解脱すという。」と述べられていることの意味を明らかにしているのです。境は、縁起によって起こるわけですから、幻のようなものである、というのです。境は実体として存在するものではないということです。私が認識した時に境は存在するということですね。依他起証の存在です。しかし、それを理解することが出来ない為に、実体として拘束されてしまうのです。拘束されてしまう為に自在を得ないのです。これを相縛という、と説明しています。