唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(88)  第六・ 我執不成証 (23) 

2012-06-21 23:04:03 | 心の構造について

 昨日の記述のつづきになります。少し不備がありましたので補足説明をします。経量部は、末那識や阿頼耶識の存在を解明されていないために、善の種子が、いつ有漏になったのかという説明がつかないのです。善と煩悩は和合することはなく、相応しないのです。善は善・煩悩は煩悩なおですから、善の種子が、煩悩の影響を受けて有漏になるということはあり得ないのです。従って、『論』には「彼の種は、先より因として有漏と成る可きこと無きが故に。」と論破しているのです。

 経量部の主張は『述記』に記載されています。

論。亦不可説至可成有漏故 述曰。第三經部師等言。如無學身諸有漏識法。雖不由他惑縁。及過去縁縛是煩惱引。然自身中有有漏種在生此有漏法故。此善等例亦然者。不然。論主難云。彼善等種成有漏者。先無因故可成有漏。謂此善種能熏熏時。無始已來先皆不與煩惱倶有。有何所以得成有漏。」(『述記』第五末・三十九左。大正43・414c)

(「述して曰く。第三は経部師等の無学の身の諸の有漏の識法の如き、他の惑に縁ぜられ、及び過去より縁縛せられ、是れ煩悩に引かれたるに由らずと雖も、、然も自身の中に有漏の種在ること有って此の有漏法を生ずるが故に。此の善等も例するに亦然なりと言わば、然らず。論主難じて云く、彼の善等の種の有漏と成ることは、先に因無き故に有漏と成る可し。謂く、此の善の種は能熏の熏ずる時にも、無始より已来た先に皆な煩悩と倶に有らず。何の所以有ってか有漏と成ることを得ん。」)

 経量部の主張は、自身の中に有漏の種子が有って、有漏の種子から有漏法が生じてくるのであると説いていることがわかります。善等も、有漏の善等の種子から、有漏の善等が生じるということになり、末那識を説かなくても、六識の善等が有漏となることは説明できるというものです。この主張に対して、『論』は「亦有漏種より彼の善等を生ずるが故に、有漏と成るとは説く可からず、」と述べています。善等の種子は「無始より已来た先に皆な煩悩と倶に有らず、と。善等の種子は、煩悩の影響を受けて有漏の熏習を受けることがないので、善等の種子は、有漏とはんらないはずである、と経量部の主張を破斥しているのです。

 「何の所以有ってか有漏と成ることを得ん」をうけて、次の科段で答えられています。

 「漏の種に由って彼いい有漏と成るものには非ず、勿(もつ)、学の無漏心いい亦有漏と成りなんが故に。」(『論』第五・十五右)

 (有漏の種子に由って彼(善等)が有漏となるわけではない。有学の無漏心は勿(禁止の意味をあらわす語)、決して有漏とはならないからである。)

 経量部の反論を予想しての『論』の論破の記述になります。反論の予想は『述記』に述べられています。

「論。非由漏種至亦成有漏故 述曰。彼若救言。雖無先時善等之位有煩惱倶生。由漏種子隨遂善等種故。善等種成有漏者不然。勿學無漏心亦成有漏故。無漏種子倶亦有漏種逐。無漏之法不成有漏。有漏善等種如何成有漏。我大乘宗。無漏不與現行煩惱我執倶故。雖有種逐。無漏之法不成有漏。有漏善等與此相違。故成有漏。汝宗如何善等成有漏 問如對法云。漏所縛者有漏善法。漏所隨者即餘地法。漏隨順者決擇分善等。彼豈皆與漏倶起故名有漏。」(『述記』第五末・四十右。大正43・414c~415a)

 『述記』の記述によれば、経量部は前科段の護法の論破に対して、「煩悩の種子が、善等の種子に随逐(ずいちく)して、その影響で、善等の種子が有漏となる」と反論を繰り広げているのです。これに対して、護法は反論を論破します。

 「煩悩の種子が、善等の種子に随逐(ずいちく)して、その影響で、善等の種子が有漏となる」というが、そうではないであろう。「有漏の種子によって、善等が有漏となるわけではない。有学の無漏心は決して、有漏とはならないからである」、と。 

 (『述記』の読みと、説明は明日記述します。)