唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『下総たより』 第三号 『再会』 その(4) 安田理深述

2012-06-04 21:34:53 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「そういう意味で非常に信仰は受動、他力にせしめられるとかさせられるとか受動性が好きで、信ずといわん、信ぜしめられると女性的表現ばかり、そうでない。信というものは極めて能動的、その能動は受動を通した能動、受動を通して最も積極的能動になる。能動というものは本願の教を信受すればそれによって本願にかえる、能動、つまり本願をうばってくる。本願に助けられて助けられた本願を助ける、それが能動、本願に動かされて本願を動かす、功徳大宝海、それを信がうばってくる。南無阿弥陀仏の大行によって南無阿弥陀仏の主となる、主体性を現わす。その主体性をあらわす場合を欲生という、受動をあらわす場合は至心、信仰の中に至心信楽欲生、至心は受動、それは真実信心、それをやめて欲生でない。それを通して欲生、つまり本願を向こうにおいているのが受動、本願になる訳です。そういうところに真に積極性、絶対自由、信ずるということは絶対自由性ということが大切、『歎異抄』に「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなり。」 お前等の勝手にせよという意味でない、信ずるだけは強制することは出来ん、非常に大切な点です。真宗以外は強制である、絶対自由それをあらわすのは宿業、絶対受動を通して、つまり取捨選択、選択本願の絶対自由を自己自身の中にあらわしてくるのが信心、至心の方は疑いようのないというのが至心、現実です。行には疑いがない、現行しているのだから、疑いようのない真実、そこに絶対自由というものを自覚してくる。主体を自覚してくる。本願に遇うたら本願に立つ、そこに疑いも自由である。後悔せんとか唯除五逆も覚悟の前だということも出てくる。

 我々が心ずることが出来るのは強制でない、それを疑ってみることも出来る、だから信ずることも出来る。受動を転じて能動に立つという、その媒介になるものが行です。行によって受動をやめて能動になるのでない、行によってたまわった信なるが故にまた行を動かす、絶対自由は自覚である。行の方は歴史、我々が信ずるということの中には歴史がある。歴史というものの中から自覚が生まれる、行は歴史的自覚というものである。」   (『再会』第一講完了) 次回日曜日から「追記」を配信します。