唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

『下総たより』 第三号 『再会』 追加(2) 安田理深述

2012-06-17 09:41:58 | 『下総たより』 第三号 『再会』 安田理

 「その二つの時間ということについて、人間というものが如何に不確かかということが現されている、こういうのは日常的時間の意味である。我々は両方もたずに生きている、何月何日の日常に流されている、親鸞は日常を超えて生きた、日常の時間の記録ということがそういうことを象徴している。何月何日は日常的時間でありまた記録的時間である。曠劫多少、更に刹那、劫と刹那、長いのは劫、短いのは刹那、そういうのは神話的時間、法蔵菩薩の歴史というようなものは神話的時間で現されている。五劫の思惟、永劫の修行、乃至一念一刹那も清浄ならざることなく、真実ならざることなし乃至一念一刹那、そういうふうにいわれている、その成就としては十劫正覚、法蔵菩薩には五劫、本願成就のところになると十劫、正覚にしても因位の修行にしても劫とか一念一刹那、刹那と劫という形で時が語られている。これは神話的時間、そういうときというものが一方では、日常性を全くこえた日常性の背景である劫というものが、二つが記録的というところに歴史の具体性というものがある。何月何日は日常であるがその意味は日常を超えている。だからして注意してみれば我々は日常的時間を単に日常的に過ごしている、だから何月何日ということもすぐに忘れてしまう、親鸞が記録したのはその時点ということを、時間ということを非常に真面目に生きたということ、日常的時間を日常的に過ごさなかった、何時であったかというようなことはない。其時現実の問題を如何に責任をもって生きたかということがわかる。つまり日常の時間を実存的に生きた、それ故にその日常の時間が神話的に現わされなければならんような深い意味をもっている。日常的を神話的に生きた、それが実存的時間というものである。」 (つづく)

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 今日の命に関わる諸問題に対して、安田先生は示唆に富んだ講義をなされていました。原発にしても、私たちが生み出したものであり、また私たちが再稼動を促したという責任があります。若し原発事故が起こらなかったなら、原発の安全性を強調し、原発に対して何等の問題意識ももたずに過ごしてきたのではないでしょうか。少なくとも私は原発に対して何等の反対の意見を言ったことはありません。以前にチェリノブイリ原発事故があったにもかかわらずです。対岸の火事として、自分とは無関係であるという視点からです。この視点の問題が「生活の為に」という大義名分で原発行政を推進してきたのではなかったのでしょうか。そして今、その渦中にいる一人として、現実の問題に如何に責任をもって生きるかということが問われているのだと思います。「原発を生み出した私とはいったい何者だ」ということを問う一日としたいのです。今から聞思洞研修会(池田市住吉・順正寺)に出かけます。 (河内 勉)