地場・旬・自給

ホームページ https://sasamura.sakura.ne.jp/

中国の赤珊瑚の密漁

2014-11-16 04:56:15 | Peace Cafe


上の畑の眺め 中盤全紙 杏の花が咲いている。畑とも思えない状況だが、美しい場所である。




小笠原諸島近海に中国からの赤珊瑚漁の200隻といわれる漁船団が、いまだたむろしている。日本の排他的経済水域にある赤珊瑚を密漁しようと、張り付いている。赤珊瑚は中国の提案で、ワシントン条約の3類になっている。取引には原産地の証明が必要なものだ。背景には中国の富裕層が買い求めるために、赤珊瑚の高騰がある。あんなものがいいというのが、まったく理解しがたい。日本でもその為に、高知湾の赤珊瑚漁が盛んになり、珊瑚漁に転換する漁船が多数存在する。高知湾では資源保護という事で、珊瑚の生態研究を含め、どう管理して行けば良いのかの議論が現在でも進められている。小笠原近海では、今回大船団が来たという事で注目されたが、以前から中国で出回っている赤珊瑚は日本産が当たり前になっていた。赤珊瑚を密漁するのは論外であるが、資源保護という観点なしに、野生動物を乱獲するという事を全体に見直す必要がある。それは日中両国ともである。

何故このような蛮行を中国政府は止めないのだろうか。こんな犯罪行為を止められないのが、今の中国政府と考えた方がいいのかもしれない。香港の学生デモへの膠着状態をみても、政府の統治能力の低下は目立っている。その原因と言えば、中国人の多様性である。中国人は本来上からの権力に支配されにくい民族だと思う。紅衛兵の一辺倒も時が過ぎれば、変わり玉のように変化する。あの天安門事件が跡形もなく消え去る国である。現代の毛沢東を思い起こさせるような、習近平独裁的政権。しかし、内実を考えてみると、独裁者をまねしているだけの尻抜け感がある。その点安倍氏と同じである。安倍氏が実は木偶人形ではないかと、思えて仕方が無い時がある。同じ人間が全く価値観の異なる考えを、しかも違う論調で、とうとうと述べる時だ。言わされている感がどうしてもぬぐえない。それは、実は朴ウネ氏も似ている。そういえば、3者ともお父さんが政治権力の有力者である。政治の利用の仕方を熟知しているのだろう。

周近平氏は大子党という事だがよくは知らない。周氏も権力者にあこがれのある人なのかもしれない。中国は韓国よりも危うい状況にある気がしてきた。大した根拠はないが、赤珊瑚泥棒を見てそう思った。中国政府の利益には全くならない事が、中国政府には賢明な判断が出来ない状況なのだ。内部に分裂が隠されているかもしれない。少なくとも政府の中に、赤珊瑚泥棒と繋がっている人もいるかのように思わせるふしさえある。世界の異端である。ある意味イスラム国や北朝鮮と大して変わらない、政府支配体制の混乱が見えてくる。中国の跳ね返りが尖閣に上陸してきても慌てないことだ。中国の先鋭化の原因は経済見通しの悪さである。すべての矛盾も、経済成長の中に紛れ込んできたのが中国である。黒猫、白猫の善悪も経済成長さえできればどうでもよかったという事だろう。そして、中国の生活改善は日本の比ではなかった。30年前の中国と、10年前の中国はまるで違った。多分今はそれ以上に違うのだろう。

中国の賃金が上がったという事だ。中国への工場の進出はさしたる有利さが無くなった。中国への進出目的は大消費者への販売対象となった。韓国の大企業は工場をいまさら中国に作ると言って、周、朴の友好関係を作りだしたが、溺れかかって泥船に頼ったような事になるだろう。しかし中国が、日本や韓国と違うのは、豹変する所である。何処かのタイミングで、大きく変わる可能性がある。日本の政治家には、ここは是非とも我慢してもらいたい。日本の未来を思って亡くなられた英霊ならその我慢の理由くらいわかってくれるはずだ。これから、日中韓3者3様に世界経済の波にほんろうされるだろう。そして、いずれ沈没する。それは新自由主義経済というものの行き着く先である。大きな世界史の流れを考えれば、市場主義経済の限界が近付いているという事がある。アメリカの様に資源大国であれば、国内に戻れば済むのであろうが、日本、中国、韓国のアジアの3兄弟は角突き合わせていたのでは、悲惨な沈没が待つだけになる。どうやって互いを補い、安定を模索するか。それこそが、大東亜共栄圏なのではないか。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

消費税10%賛成

2014-11-15 04:08:13 | Peace Cafe


荒波に舞う鳥 中盤全紙 白い絵で反射してしまい良く撮れていない。自分ではそこそこ自分の見えているものに近づいていると思っている。今見てみると、鳥が自分だったのかと思う。




私は以前から消費税値上げ賛成である。10%へのさらなる変更も賛成である。ただし条件がある。お米代表とする、基本的食糧は無税に同時にする事である。安倍政権は国会を解散し、消費税凍結を掲げて選挙をしようとしている。政治家が選挙だけを目的に活動している結果である。本当に国民の生活を考えたら、選挙などできる状態ではない。国民の生活の共通のものである基本的食糧から税金を取ることがおかしい。憲法で保障された生活権からして、食糧から税金を取ってはならない。その前提で、消費税の10%は賛成である。消費税では公明党の主張が比較的近い。但し、公明党案では値上げしないというだけで、無税までは言わない。米と麦と大豆は無税にしなければダメだ。複雑にしない為にも、多くの品目を無税にしない方がいい。この3つだけでもいい。最低限それだけを食べていれば、何とか生きていられるというものは、無税であるべきだ。公明党は朝食という言い方をしている。ともかく基本的食糧は無税という事がいい。そして10%の消費税である。

消費というものは美徳ではない。消費はできる限り控えるものだ。資本の競争の為に、国民を消費者として見ているのが政府は間違っている。人口減少や、女性の社会での活躍も、経済の視点が政府の本音である。経済の前に人間の暮らしに対する思想が無ければならない。一人ひとりの暮らしの倫理に置いては、消費は控えるものと考えたほうがいい。節約は正しい暮らし方だ。私は飲み水は、湧水を飲んでいる。湧き水の方が生きていると思うと同時に、湧き水はお金が掛からないと思う気持ちを飲んでいる。国の経済を優先に考えて、国内消費の拡大の為に、要らないものを買わせるような方向になってはならない。消費を多くするものが、その贅沢消費に対する対価として、消費税として税を多く負担する。消費の抑制になる税は、悪い税制ではない。さらに、税の多様性という意味でも悪くない。税は何処かに偏らない事が公平になる。問題は消費税が弱者の負担増になるという点である。そこで、基本的食糧を無税にする事で弱者対策を行う。これが絶対的条件である。

消費税を10%にする事は、現状では格差拡大につながる。日本の現状の格差は、多分過去最大ではないだろうか。しかも、格差はさらに深刻化して行く状況である。市場原理と能力主義の政府である。頑張るものが多く取る。聞こえはいいが、実は既得権を保有する者がさらに有利になる仕組みである。資本を多くもつものがより有利になる政治なのだ。機会均等であるべき、教育にも格差が反映する。能力主義と言っても経済格差が、能力の獲得に反映する。それは悪い先例として韓国社会はひどい事になっていて、社会の絶望感につながっている。その点、詳細は分からないが、アメリカの様なキリスト教社会の能力主義とは、別の道筋を歩むことになるのではないか。個人主義の確立と、封建的家族主義の清算がなされていない社会との違いという事もあるのだろう。

政府が食料の無税化をどこまでやるかである。民主党をはじめとした野党は自民党以上に混乱をしている。消費税の意味合いを理解しているのは、公明党だけである。この際、野党は基本的食糧無税を主張してもらいたい。そこに自民党との対立軸を作る。それは消費税10%と何ら矛盾しない。弱者の側に明確に立つ。既得権益の側に立たない。これが野党の道である。所が、野党の人達の多くも、既得権益にしがみつく労働組合であったりする。日本人のかなりの人達が、過去にしがみつき、自分の足場だけを固めようという意識になっている。この様に利己的では日本に未来が無いという事に気付かなければならない。第3の矢がどこにもなかったように、新しい産業が立ち上がるような、環境と意欲が失われかかっている。そして、収入は物価の上昇にも追いつかない社会。このまま自民党政権では格差は極端に広がるはずだ。その不安の爆発を抑止するために、自衛の軍隊は強化されてゆく事だろう。今回の選挙で自民党に勝たせるようでは、野党はすべて辞めた方がいい。今回の選挙を絶好のチャンスと考えなければならない。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大豆の脱粒が終わる。

2014-11-14 04:01:09 | 自給


志賀高原 田ノ原湿原 中盤全紙




大豆の脱粒が終わった。大豊作の190キロと雑未分別が5キロ位はあった。このままさらに干して行くが、180キロ以下という事はないだろう。面積は7畝だから、反収270キロになる。これは、全国的に見ても、大豆としては少ない収量ではない。全国の平均反収量が155キロというのだから、その倍位は収穫している事になる。あらゆる作物で有機農業だから、収量が少ないなどという事は全くない。そうした事実を大豆でも証明できた。きちっとした農業をすれば、農薬も化学肥料も必要ないという事を実践して行くことはとても重要だ。まだ改善点はあるのだが、だいぶ大豆の栽培法が見えてきた気がしている。反収300キロも視野に入ってきた。いずれにしても土壌を良くするということに尽きる。土壌が良ければ、作物は良くできる。病気も虫も付きにくい。当たり前のことだが、土壌が良くなるという意味は難しい事で、土壌分析ぐらいでは本質はみえない。作物の観察で方向を決める事が、難しいのである。

大豆の場合、良く言われるように窒素肥料が多すぎると良くない。自給農業で窒素過多などという事は普通はない。基本的に購入肥料を使うという事がないからである。自分で堆肥を作り入れるとすれば、それほど多くの堆肥やぼかし肥を入れることなどできないことは、やってみればわかることだ。現状では笹村農鶏園から出る発酵床を入れるという事が基本である。そして、もみ殻くん炭である。それらを裏作の小麦の時にたくさん使う。今年は、大豆で作った堆肥を1トン。発酵床を42袋。くん炭を150リットル。これを大豆の収穫後すぐ畑に入れて、耕してある。そして、2週間空けて小麦の播種を行う。小麦の藁は持ち出す。出来れば鶏小屋に入れる。それを畑に戻すことが一番良い。要するに腐食質を増やすという事が、最も大事な大豆の栽培法になる。小麦の様子で、大豆前に何か入れるかを決める。但し、小麦は肥料が必要な作物だから、小麦の播種前に出来るだけ肥料を入れる。可能なら、追肥も行い、先ず小麦をしっかりと作ることが、大豆の栽培にも生きてくる事になると考えている。

後は水分である。大豆は花が咲き結実するには、土壌水分が必要である。この時期雨が降らないと、何らかの方法で水をやらなければならない。大豆の花は、1ヶ月以上の期間徐々に咲き実になってゆく。だから8月後半から、9月一杯はそこそこ雨が必要という事になる。今年はこの時期良く雨が降った。お陰で、実入りが良く、空鞘が少なかった。そして、実った実がどこまで大きく膨らむかである。当然日照も必要になる。雨もあり、日照もある。いわば夜は雨で、昼は晴れるというような天候なら、収量は良くなるという事になる。そして、一気に寒くなれば、葉は一気に枯れて落ちる。実も硬くなってゆく。寒さが一遍に来れば、実は殻がはじけることなく、そのまま鞘を閉じたまま、乾いていくようである。これは今後の観察も必要な事項である。夜雨がある点、一気に寒くなる点、では山の畑の方がいいという事になる。

もう一つ気付いた事がある。それは、播種時期が収穫期に大きく影響するという事だ。遅く撒けば、収穫も遅くなる。当たり前のようだが、案外に種蒔きと収穫は連動しない作物が多いい。大豆は、播種の1週間のづれが、収穫の1週間のづれに繋がる傾向が強い。そのうえ、播種の1週のづれによって収量も変わってくる。その場所その場所の最善の播種時期を見つけることが重要である。土中緑化法は今年も収量的に効果が無い。理由は分からないが、3年やって多収の道は全く見えない。何が悪いのか、もう一度考えてみる必要がある。誰かヒントをくれないだろうか。直播も、ただの苗によるものも、土中緑化法も、収量に差はなかった。土中緑化の株は背丈が大きくはならず、但し実は良く付けていたが、がっしりした株という事にはならなかった。堆肥はかなりいれたのだが、その効果はみえない。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

収支報告書の説明責任

2014-11-13 04:36:40 | Peace Cafe


静物 中盤全紙 水彩人の講習会で一緒に書いたものである。講習会では一緒に描く事にしている。作品を作るつもりで描く。だから講習会というより、研究会という事である。





国会議員の収支報告書の間違いが頻発している。多くの人が記載ミスとか、法的には問題が無いとか、弁解をしている。既にうやむやになってきた。国会議員なのだから、有権者がしっかり判断すればいい事である。その判断材料が公表されていないことが問題なだけだ。政治にはお金が必要だという事を、政治家は言い訳がましく主張する。そして、一人国会議員に1億円もの税金が充てられていると、テレビでは説明していた。選挙にはお金が掛かるのであって、政治にお金などかかるわけがない。もし、お金が掛かるという事なら、1億円の使い道すべてを公表してもらいたい。大半が有権者の接待に使われているように想像している。政治活動にどうやって1億円も使うのか。政治とは結局お金の出入りだと、大学の時の政治学の授業では解説されていた。税収と支出である。それを会計検査院が調べる。所が、政治家は政治にお金が必要だと言いながら、その使い道を明確にしていない。明確にできないお金が居るのが政治だとすれば、それでは裏金政治という事になる。

利権と既得権の政治。今の時代の政治なんてそんなものだ。大抵の人はこんな諦めを感じ、国の未来等関係無い。という気分で暮らしているのではないか。これが政治家の付け目なのだ。眺めているだけの観衆。主体者でありながら、傍観者に追い込まれる、国民。憲法12条にある。「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」不断の努力はどこに行ったのだろう。投票するという努力すら、半数の人間が行わない民主主義国家。政治家はこの状況を導き、悪用している。政治に関心が無い事が良い政治が行われている証拠だ。そう発言した国会議員もいた。問題があれば、選挙に行くはずだというのだ。しかし、そうではない、問題が見えなくされている。それが説明責任である。簡単なことだ、政治家にはその経費の収支報告を月々、すべてをインターネットで公表する責任を課すことだ。

それを嫌だという議員は、やらないでもいいが、やらない人間には投票をしなけばいい。実はそれに類するものは、公開されているが、これは政治団体を持っている議員だけのもので、政治団体同士が寄付行為などをしている様子ぐらいしかわからない。その個人の収支内容までは分からないようになっている。そう考える国会議員がいるなら、その人からやればいいことだ。共産党や、社民党の議員さえそういう事をしていない。やっているのか知れないが、ネットで調べた範囲ではない。どこか後ろめたい所があるからだ。政治活動費が何に使われているのかの報告こそ、議員の本当の活動が見えるものだ。同時に、日々の活動日誌もインターネットに出してもらいたい。議員というものが、代議員であり、税金で活動してもらっている以上、そのくらいの義務を課して当然のことだろう。それを行えば、1億円はかからなくなるはずだ。新任大臣の収支報告が問題化している。と同時に野党の責任者の収支報告の問題点も出された。この背景は大多数の議員におかしな収支報告があるという事だろう。

小田原の衆議院議員は牧島かれん氏である。この人は日々の活動を公開している。例えば最近久野体育祭に見えていたが、確かに報告されている。細かく国会議員が何をやっているのかという事が分かるように書かれている。これは評価されていい。問題はそれに伴う収支報告書が出ていないことだ。併せて何にどれくらいのお金が出入りしているのかを書いてくれれば、完ぺきである。しかし、この日誌を読んでみると、政策の研究はいつやっているのだろうと思わざる得ない。ブログにも牧島氏らしい政策はない。自民党からの天下り政策がならなんでいるだけだ。私の判断では、牧島氏の日々は選挙運動の為の活動としか見えない。この人はなにがやりたくて政治家になったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

紙ごみの分別

2014-11-12 04:11:03 | 地域


月光 中盤全紙 原発事故後、海を描けなくなっていた。同じに見えない。視覚的には同じなのだが、絵を描く目には同じに見えない。やっと描けるようになったのが、月光の絵だ。鎮魂という事でもある。満月の月の道が話題になっている。多分同じ気持ちだろう。







破れてしまったその他紙分別袋

小田原では紙ごみは3種類に分けて分別されることに成っている。段ボール類。雑誌類。そして、その他紙という分類である。しかし、紙ごみは分別されずに、もえるごみに混入してきているそうだ。実は私の家では、その他紙は焼却炉で燃やしてしまうことが多い。資源回収と言うことからして、良いことではないと思うのだが、その他紙の分別が面倒くさすぎるからできないのである。紙袋に入れなければならない。紙袋が無い場合は、新聞紙で作れということである。先日、自治会長会議の席に、紙回収の業者の方が見えて、見本の新聞紙で作ったものをくれたのである。ここまでやってくれてやらない訳には行かない。そこで新聞紙袋に入れて行ったのだが、3日もした時に一杯に成り、写真の状況である。そして、簡単に破けてしまった。古い新聞紙と言うものは、弱いものだ。この袋をガムテープで自分で作れというのだから、ちょっとアイデアとして良いものには思えない。

小田原自治会連合会ではその他紙の紙袋の作り方ガイドというものが、配られた。その方法の説明と、その他紙袋の事例等の説明がある。紙の分別収集が進まないためというが、違うと思う。新聞、雑紙、段ボール、牛乳パック、はそれぞれ分けてひもで縛って出す。それ以外に「その他紙」という分類があって、これらは紙袋に入れる事になっている。ここには、封筒、はがき、包装紙、紙コップ、メモ紙、レシート紙、紙ケース、細かい紙類、菓子箱、等となっている。汚れていないごみであれば、入れていい事になる。所が、上記のそれぞれに仕分けるべき紙類は、この中に入れてはいけないという事で、ここが案外に難しい。私には雑誌に近いパンフレットなど、この中に入れてもいいような気になる。というのも雑誌も、その他紙も結局は同じ再生ルートに回るからである。

いずれ、今のやり方では紙分類が画期的に改善されるという事はない。今回の方法を説明して歩き、分別が進んだかの検証が必要である。大抵のものはその他紙に入れてもいい。という位にしなければ、到底面倒で無理である。さらに言えば、月2回の紙収集以外の日でも、特定の場所に持ち込めば受け取ってくれるくらいのシステムが必要である。月2回を記憶しておくのが結構大変だ。忘れて、置いておくのも大変な時もある。持ち込んで受け取ってくれる、リサイクルステーションが無いという所が、小田原のごみ行政の遅れている所だ。紙ごみで不安な事は個人情報が紙ごみに紛れ込んでいないかである。シュレッダーで裁断するというのは確かにある。シュレッターが無いのでハサミで細かく切ると言われた人がいた。そこまで手間を掛けて、あるいは費用を掛けて、燃やす事をよりどれだけリサイクルになっているのかとい気持ちが、私の紙ごみ分別を妨げている。

手提げの紙袋はすべて、他で使うので、紙ごみ入れには使えないというのが、我が家の事情なので、新聞紙で作った。業者お薦めの袋を使ってみた。所がまた忽ち破けてしまった。古新聞は弱いものである。ビニールテープで補強してみたが、裂け目が広がるばかりで、私のような荒っぽい人間には、実用的とは言えない。ついぎゅうぎゅう押し込むからいけない。そこで工夫してみたのが、米袋方式である。



米袋のいらなくなったものの上部を折り返して使う。これはきわめて丈夫である。ちょっとやそっとで敗れる事はない。では米袋はどこで手に入るかであるが、普段お米を購入しているお米屋さんにお願いすれば、無料でくれると思う。お米の配達をしてくれる日に何枚かお願いすれば持って来てくれるだろう。勿論町のお米屋さんで買わないという人も多いい。そういう人には、行政が配ればいい。現在も新聞紙で作った袋を環境課で配るシステムがある。それくらいなら、新聞紙袋を作っている作業所に、米袋を集めて折り返す仕事を依頼した方がいいと思う。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

全農改革案

2014-11-11 04:11:40 | Peace Cafe


佐渡 中盤全紙 この絵は20年ほど前のものである。佐渡で描いたときに少し自分の絵の方向が見えてきた。その後また見えなくなったのだが。




全国農業協同組合中央会は6日、自己改革案を発表した。農協では、農協を解体しようとしている人達を、市場原理主義者と呼ぶらしい。安倍政権は確かに市場原理主義を貫こうとしている。国際市場における競争原理を徹底することを、農業の方向としている。しかし、この市場原理というものは強者の論理であって、農業画自然条件に支配されているという事を忘れてはならない。世界は市場原理主義によって、格差の拡大に向かっている。イスラム圏諸国や中国が少し異なる市場原理を主張しているともいえる。韓国は日本より一足先に、徹底した市場原理で勝ち抜こうと、政策を取り始めた。日本も後追いをして、規制緩和とか、市場原理導入とかいう、目標に向けて安倍政権は進んでいるのだろう。そうしなければ、世界の競争に勝てない。と市場原理主義者であれば考えるのも当然のことであろう。市場原理主義と、政府の農協に対して打ち出している、規制緩和政策との関係を考えてみる。

農業分野に存在する様々な規制の象徴が農協である。あるいは農業委員会制度である。本来、生産者の共同出荷する組織が農協である。農協であって、株式会社でないから、共同出荷という価格調整を行うことができる。独禁法から除外される。それは、農協という組織が利益を目的とした組織ではなく、生産している農家が互いの営農を守るために、共同出荷するための共同組織だからだ。この仕組みを利用して、保険や不動産業、そして銀行業務にまで、範囲を広げている。私は農協の正会員であり、運営委員という役も2年やらしてもらった。それで、少しは農協の様子が分る。農協は必要だと思う。必要ではあるが、現状から大きく変わらない限り、市場原理に従わざる得ない存在でもある。今のままでは既得権を死守する組織に見られる。農業者の組合は間違いなく必要である。しかし、農協の存在意義が変わってきているのも事実である。米価維持とか、減反政策とか。こういうものが農協自体を共同出荷の本質から変えた。市場原理主義に対抗する農協の思想は、農家の共同のはずだ。これを失ってはならない。

果たして現在の農協は共同の名に値する組織であるかは疑問だ。その為に市場原理主義に対抗できないのではないか。農協は共同の原点に戻るべきだ。市場原理主義に繋がる、利益や利潤ではなく、農家の暮らしを守るための共同の原点に戻るべきなのだ。アメリカ式の民主主義ではなく、江戸時代の民主主義である。江戸時代には民主主義など全くなかったと思われているが。江戸時代には江戸時代特有の日本式村落の民主主義が存在した。納得が行くまでの話し合いである。一つのことを決めるのに、泊まり込みで話し合いを持つ。納得が行くまでの合意がなければ、農村共同体ではうまく行かないからである。それが日本の現状は形式民主主義になっている。しかも、その共同体は、祖先から自分が受け継ぎ、未来の子孫の繋がるものなのだ。単なる封建主義では済まない、農村の生産者としての共同体意識が存在した。農協はこの江戸時代の徹底した合議主義をもう一度思い起こすべきだ。現在の農協の話し合いは、組合員という立場に立つと、形式主義化している事を痛感した。

私が運営委員の時に農協はTPP反対を決議して、署名活動を展開した。確かに組合員全員が署名をしてくれた。しかし、組合員全員のTPPに関する話し合いが行われた訳でもない。確かにみなさん企業に勤めている。TPP賛成の人も多い感じだった。しかし、一応は農協の署名にも参加しておくという気分を感じた。農協の正会員といっても、西湘農協の大半の人が共同出荷をしていない。お米でも積極的な人は直売など模索している。農協出しは価格的に不利になる。ミカンの産地が衰退して行く過程で、共同出荷体制が崩れた様だ。農協が営農的に共同出荷して有利な状態を作り出さなければ、農協が形骸化して行くのもやむ得ないことだろう。それでも多くの人が、地域というものを大切に考え、農協が地域ごとの営農組合の基盤にあるという意識がある。だから、少し考えが違っても農協の要請に答えているのだろう。今回の改革案も、上からの案であって、組合員からの積み上げは全くなされていない。この実態が変わらなければ、農協は失われてゆく運命にある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安全保障と軍備

2014-11-10 04:06:37 | Peace Cafe


沼津江の浦 10号  小川和紙 港を見下ろす高台から描いている。富士山を見る最高の場所。今は、奥のみかん畑が放棄されてしまい、ここまで登れなくなっている。



やっと日中首脳会談が開ける事になった。日本の総理大臣が、頭を下げてお願いして、中国に出掛けて行って、会って頂くという構図に導きこむ駆け引きは、さすが大中国である。それでも会わない訳にはいかない。あの小笠原にたむろしている、赤珊瑚の密漁船団すら強い態度が取れないのが、日本政府であり。中国政府の指示で来ているのか、犯罪者の野放しなのか、あるいは中国政府がかなり限界に来ているのか。中国は政治的にはかなり困難な状況に陥っていると見ている。その原因は格差である。一握りの富裕層が腐敗構造の中で、私腹を肥やしてきた。経済成長が目に見えていた時は、それでも大半の国民が恩恵を受けていたから我慢をしてきた。経済が徐々に落ち着いてきた現状では、未来への希望がしぼみ始めている。政府のより強い統制を必要としている状況。この緊張関係に日本政府は利用されている。

軍事力の大きさが国の安全に繋がるのかどうか。現実に世界で起きていることを見る必要がある。ウクライナとガザ地区が戦闘状態にある。イスラム国という大きなゲリラ組織が、中東で暴虐を尽くしている。アフリカでも数限りない戦闘が繰り返されている。第2次世界大戦以降69年が経過して、第3次世界大戦は起きなかったが、死者の数からすれば、戦争は常に起きている状態である。こうした状況の中で、軍事力が平和を維持することには不可欠だというのが、集団的自衛権の憲法解釈見直しの要因と説明されている。このことは否定できない一面であるが、同時に、軍事力があるから戦争が阻止できるということでもないことは、現状から想像される所でもある。現在の戦争は、代理戦争になる。民族戦争であったり、宗教対立が背景にある場合が多いいようだが、対立する陣営に大国が後ろ盾になる。大国が割り込んでくる背景は、結局は経済である。社会正義が錦の御旗として口にされるが、経済圏の確保が、国家を越えて世界企業の活動として存在する。

日本の安全保障を考えた場合、中国の軍事的拡張主義が目の前の課題であり、北朝鮮の暴発的な危機が、深刻な現実問題である。幸い宗教や民族的対立という、深刻なことは無い。中国の国内には、民族対立や、宗教対立が存在し、それが中国政府の軍事大国化による国の安定と言うことに繋がっている。また、領有権にこだわり、拡張主義になっている原因は、海洋権益の確保が海底資源を経済発展の要としているためのようだ。高度成長を続けている中国としては、新しいエネルギーの確保が、国の経済発展に欠かせない要素だろう。いつまで石炭を使っている訳にはゆかない。中国にとって、経済成長が止まる時が、国内問題が沸騰してくるときに成るのだろう。経済成長こそ、現中国政府の命綱と成っている。

日本の安全保障の原則は、日本の権益を外国に求めないことである。経済の拡大のために、外国の消費者を当てにしないことだ。経済競争に勝つという事を日本の方角にしないことだ。競争の原理は、必ず軍備競争につながる。強い者が勝つという事から、人類が抜け出る為の希望が、日本国にはある。それが平和憲法の精神である。世界は、経済競争の行き詰まりが近付いている。そのときに、軍備競争に拍車が益々かかる事になる。それは、人類の破滅への道だ。確かに無防備である必要はないが、攻撃的武器は持たないという意思は一つの平和への道だ。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樹木希林さんのインタビュー

2014-11-09 04:33:29 | 水彩画


妙高山いもり池 中盤全紙 早朝である。昼間はとても人が多くて、描ける状態で無かった。妙高には描ける所が沢山あるので、時間時間で動きながら描く事が多かった。





キリンさんが上手い事を述べている。内面的な難しい事で、表現しにくい事をこんなに上手く語る人はいないと思う。何故か判らないのだが、その昔、キリンさんにファッションをほめられたことがある。このきたない私の身なりをである。身なりを意識することはほとんどないので、破れたような服で、どこにでも間違って出掛けてしまう。作業着をいつも来ているにすぎない。それなのに何故か自然で良いというような意味で、慰めてくれたのだろう。役者というのはファッションセンスが悪くて、着飾って見苦しいものだというような事をその時言われていた。心の暖かい人だと思った。もちろんキリンさんを知っている訳ではないのだが、長沢節さんの所に見えた時に2度拝見した。オーラなどまったく隠してしまい、普通に見える人だった。この動画のインタビューには無いのだが、自分は完成しないまま、駆け出しとしてそのまま今ここに居る。というような事を言われていた。その感覚が私なりに理解できた。

45年前の金沢の馬小屋で目覚めたような気がする朝がある。絵を描いてゆこうと決意したころのことだ。先日、水彩人の仲間の大原さんから、笹村さんは二頭追うから、絵の結論が出ていない。これこそが笹村だというような絵を見せてもらった事が無い。結論を出す絵を描かないとダメだろうと言われた。全く的を得た、心に深く沁みてくる意見を聞かせてもらった。これだから、水彩人は価値がある。よく分かる有難い言葉だ。恥ずかしいが確かに自分自身自分の絵をまだ描いていない気はしている。自分の見えている世界を表現できたことはまだない。キリンさんが役者というものは時代というものを写す、自分の体を通して写すようなものだと言われている。自分という人間の身体が時代や社会を通過してみせる、鏡のようなものというような事を話された。絵もまさにそうで、私が見ているという事は、私という存在が感じたり、把握したりしている現実を眼というもので、見て。それを画面で再現しようというものだと思う。大原さんはそれが出来ていない、いや、挑戦していないと言われたのだと思う。

全くその通りで、痛い事だし、残念なことで、情けないことだが、認めるしかない。大原さんの仕事は、常に結論を出している。若気の至りで出す結論だから、不十分であったり、人まねを感じさせたりしているのだが、結論を出す事が出来る努力と才能がある。確かに1頭を追っている感がある。具体的に言えば、今、出来る事を、出来ますと見せる。私はできる事は忘れよう、忘れようとしている。忘れて、いつかできることを期待して、ただ見たというように眼と手に任せて描こうとする。絵を創ろうとか、自分の絵を完成しようとかしないというか、出来ないのである。この事を意識させてもらえた事はありがたい事だ。

キリンさんが時代の鏡になる事を感じたというのは、ある領域に達したという事ではないのだろうか。病気をした為に、自分の残りを感じたのでそういう意識になったと言われている。人生の達人の言葉である。絵を描くという事は、自分の成長をまたない限り無理なことではあるのだが、大原さんの言われるように、又やっているように、そのときの結論に向かわないというのも、何処か逃げがあるという事になる。キリンさんが自分の存在を通して表現しているものは、他の誰にも表現できない、存在の生そのものでありながら、演技であるという。何か不思議なものだ。絵を描くという事もまさにそうした事で、今すべてを出しつくせないものが、それが借りてきたものであれ、盗んできたものであれ、何でもかんでも掛けて勝負できない人間が、いつかできるもないものだと思う。それはやはりいつになってもできないという事なのだろう。そう振い立って、本気で絵という一頭に向かおうと思う。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふしぎな岬の物語

2014-11-08 04:06:34 | 身辺雑記


富戸港 中盤全紙 写真がひどくて残念。もう少しましな絵ではあるのだが。漁港の揺れるマストである。




映画を見に行った。コロナの湯の2階に映画館があり、映画を見てお風呂に入るという一日は、又とない楽しみだ。そういうセット券があるのだ。その上昨日は床屋さんにも行った。よい午後を過ごした。映画は、モントリオール映画祭で受賞した「ふしぎな岬の物語」吉永小百合主演プロジュースで評判な映画だ。監督は成島出氏である。同じ出なので、名前だけは「八月の蝉」で前から知っていた。見ようかと思いながら見なかった作品だ。ふしぎな岬は私が良く絵を描くような場所の映画である。しかも冒頭から幽霊の絵描きが出てくる。吉永小百合ふんする主人公の、若く亡くったご主人とその絵画が、話を繋いでいる。残念ながら、その岬と虹の絵は今一つのものなのだが。映画よりも、自分の絵の行く先の事を思い浮かべてしまった。私が死んだら私の絵は困るだろうという事だ。誰かの記憶の中にだけでも残る事があれば、それだけで充分である。そのように虹の絵は消える。

吉永小百合さんは子供のころ見た、「キューポラのある街」以来である。確かにテレビでは時々見ているのだが、思い起こせば映画館で見るのは、二回目にすぎない。この映画をプロジュースしたという事だが、確かご主人は著名なプロジューサーだったはずだから、そういう仕事には精通しているのだろう。実に手際が良く出来ていた。配役や、設定がとても良い。テーマは人のつながりという事だろう。日本人的な人の支え合いのようなものが、味わい深く沁み入ってきた。成島監督という人の感性は、映像詩的に素晴らしいものがある。場面場面の詩情が行き渡っていて、その組み合わせというか、連続の仕方が連歌のようで手際がいい。丁寧な作りが当たり前の情景を、格別なものにする。この映画が撮影されたという当たりも、何度か絵を描きに行っている。ごくありふれた日本の海岸である。そのありふれているという事が、とても大切なテーマになっている。普通の暮らしにある、特別に大切なこと。

この映画は現代の無法松である。阿部寛演ずる女主人公の前科者の甥の、純情である。無法松が何故憧れの女性に、生涯をささげてしまうのか。今回初めて知った事だが阿部寛は素晴らしい俳優だ。この難役を見事にこなしている。単純で、素朴でありながら、奥深い所にある、存在の傷のようなものをかすかに、大げさでなく感じさせている。見てはいないのだが、「テルマエロマエ」を踏まえてここまで進んだのだろうと想像する。吉永小百合映画というのはあるのだと思う。それである程度客を呼べる。だから、そう写さなければならないような画面がいくつも出てくる。ところが、後に甥と結婚する事になる。竹内結子演ずるよくありがちな漁師まちの出戻り娘が、その華やかな若さで、吉永を圧倒している。この対比が伏線というか、人間の連なり行く生命観として意識されている。人間の生命の不思議。最後に二人に子供が出来たという事で、めでたしめでたし。そこで要らないナレーションが入るのだが、それは蛇足だろう。

喫茶店なので、コーヒーを入れる。そのコーヒーの入れ方に、とびきりの気持ちを込める。茶道のようなもの。毎朝、湧水を丁寧に汲みに行く。私と同じだ。同じコーヒーでも湧き水で入れれば違う。生きた水を使う意味。そして、美味しいという以上のものがそこにある。丁寧に日々を生きるという事。こうした思いを共感できるという事。私は生きた水で、田んぼを作り、そのお米を食べる。そいう全体の事を考えている。それは実は水道水でも、何ら変わりがあるわけではなく、美味しくなーれというその魔法のこころこそ大切。一日を充分に生きそして死んでゆく世界。しかし、コロナの映画館にはお客さんが一人も居なかった。一人もである。こんなに良い映画に観客が居ないとは全く不思議なことだ。一人もいない客席に座るというのはさすがに初めてのことだった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界農業遺産

2014-11-07 04:01:30 | 地域


伊豆の入江 中盤全紙 俯瞰的に港の入り口を見下ろしている。水面と陸の関係に興味がある。




先日、農の会の仲間の相馬さんが、フィリピンでの有機農業の支援活動の総仕上げとして、日本での実地研修を行なわれた。小川町の有機農家に泊まり込んで研修をされたようだ。帰りにみんなで小田原に寄ってくれて、農の会の見学をされた。フィリピンでも農業で暮らしてゆくという事は大変なことらしい。それでも有機農業というブランド力で、何とか困難を突破しようとされているようだ。こうした支援活動が生きる事を切に願っている。私ももう少し若い時代なら、加わりたいぐらいなのだが。この機会だと思ったので、くん炭づくりを見てもらい、帰ってすぐやれるようにと、参加してもらった。もみ殻や、藁は稲作をやっていればどこでも、簡単に手に入る材料である。中国では案外に使われていなかったのだが、日本の影響で今やくん炭を日本に輸出している。くん炭は土壌改良が出来るという事が素晴らしい。田んぼに行って藁を簡単に堆肥化する事も見てもらった。土を良くするには、腐食を増やすことだという事が伝わっただろうか。

フィリピンではコルディリェーラの棚田群が世界遺産になっている。一度は行ってみたいと思っている。イフガオ族という人たちが2000年に渡って耕作してきた棚田である。2000年同じ場所で耕作できるという永続性こそ、東アジアの永続農業である。見えた方は、そのイフガオ族の人もいた。相馬さんの関わる支援活動はコルディリェーラのお隣だそうだ。やはり似たような山岳地帯だそうだ。土壌が固く粘土質だと聞いていたので、くん炭を使えばと思っていたので、ちょうど良かった。イフガオ族の人は素晴らしいギターで、ビートルズを歌ってくれた。民族の踊りもかわるがわるおどってくれて、日本の参加者も見よう見まねで一緒に踊る事が出来た。とても優しい人達であった。世界中どこでも、里山の暮らしは、やさしい人を作り出すのではないか。以前タイから見えた山岳民族の人も、とても優しい人だった。

世界農業遺産の25地区の内、10地区が稲作と関連している所である。稲作と言うものの優れた特徴を表しているのだろう。永続農業としての稲作の優秀性は際だっている。伝統的農業業遺産と言われる形態を持ちながら、国の食糧の基本となる技術に連なっている。人間の永続性ある暮らしは、伝統的稲作と結びついている。稲作以外の古代文明は途絶えたが、稲作は中国で始まり、東アジアでは2000年循環する農法が続いている。。この伝統的な稲作技術にある、永続性は失っては成らない。日本では2700年培ってきた農業技術である。確かに国際競争力と言うものの前では、淘汰選抜されてゆく運命の中にある。しかし、日本に来てからでも2700年。中国では7000年も継続できた稲作の伝統技術と言うものは、人類として失ってはならないものに違いない。今後世界が混乱に向かうにしても、稲作に戻ればなんとかなる。現在、世界の伝統的稲作農業は、農業遺産として守ってゆこうとしなければ、存続すら危うい状況にある。農業遺産の中には世界文化遺産に登録されている所も少なくない。

GIAHS(注)世界農業遺産とは、伝統的な農業農法を核として、生物多様性、優れた景観等が一体となって保全活用される世界的に重要な農業システムを、国連食糧農業機関(FAO)が認定するものです。新潟県佐渡市が申請した「トキと共生する佐渡の里山」と能登地域4市4町で構成する能登地域GIAHS推進協議会(七尾市、輪島市、珠洲市、羽咋市、志賀町、中能登町、穴水町、能登町)が申請した「能登の里山里海」が、日本初となるGIAHSに認定されました。平成25年5月29日(水曜日)から5月31日(金曜日)に石川県七尾市で開催された世界農業遺産(GIAHS)国際会議において、新たに静岡県掛川地域4市1町で構成する「静岡の茶草場」世界農業遺産推進協議会(掛川市、菊川市、島田市、牧之原市、川根本町)が申請した「静岡の茶草場」、熊本県阿蘇地域1市3町3村で構成する阿蘇地域世界農業遺産推進協議会(阿蘇市、小国町、南小国町、産山村、高森町、南阿蘇村、西原村)が申請した「阿蘇の草原の維持と持続的農業」及び大分県国東地域4市1町1村で構成する国東半島宇佐地域世界農業遺産推進協議会(豊後高田市、杵築市、宇佐市、国東市、姫島村、日出町)が申請した「クヌギ林とため池がつなぐ 国東半島・宇佐の農林水産循環」の取組が世界農業遺産(GIAHS)に認定されました。

農水省の専門部会で、日本から新たに申請する地域の選定が、推薦された7地区の現地調査が行われ、審査されていた。結果、申請地として、「みなべ・田辺の梅システム」は養分の少ない礫質(れきしつ)の斜面を活用して、高品質な梅を持続的に生産する地域。岐阜県長良川上中流域(里川における人と鮎のつながり)、宮崎県高千穂郷・椎葉山地域(高千穂郷・椎葉山の森林保全管理が生み出す持続的な農林業と伝統文化)の3つの地域が申請と決まった。世界全体では25地区が農業遺産地域として認定されている。その内5つの地域が日本に存在するというのだから、日本の国柄が農業遺産に表れている。こうした伝統的な農業の形態が、残されている国は経済先進国では極めて少なく、日本は由一の事例に成っている。佐渡、能登、掛川、国東、阿蘇の5地区とも世界に誇れる伝統農業をお残している。日本の国がらはまさに、瑞穂の国である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和紙のユネスコ無形遺産

2014-11-06 04:30:08 | 里地里山


足柄平野 中盤全紙 手前の赤い塊は竹だ。竹が赤い訳が無いが、赤くく描く方がいいと考えた。緑と赤はそういう関係になる事がある。何故だか良く分からないが、補色だからかもしれない。





和紙が和食についで、ユネスコの無形遺産に登録される方向の様だ。当然のことだと思う。和紙の洗練された技術は、世界屈指の紙作りの技術である。ルネッサンスヨーロッパでも評価が高かったという位の紙なのだ。レンブラントが使ったと言われている。何故、日本の和紙が優れているかと言えば、日本の水土が紙づくりに適合しているからだ。そして、稲作を行う里山の暮らしが洗練させてきた技術だ。この暮らしが日本人の繊細な感性を作り上げた。和食と言い、和紙と言い、日本人の伝統的な暮らしがもたらした、奥行きのある微妙さは格別なものだ。そうした日本人の文化は稲作を基本として出来上がっていたことが分る。和紙も、稲作も、中国から渡ってきたものだ。古代中国人は紙の製法を編み出した。素晴らしい紙が出来たからこそ、中国の文明や思想が深まったとも言える。しかし、日本に伝わった紙の製法は、日本人の繊細な感性が磨きをかけ、和紙と言う日本人を反映するものにまで洗練し、和紙を生んだ。

和紙を作る技術は、水土をコントロールする技術が無ければ、発達しないものである。水土を制御する技術を天皇家が保持し、その技術を日本と言う稲作の国を作り上げて行く根本としたのではないか、と考えている。紙と言う文化と製造の技術は、中国から伝わり、日本全土に広がってゆく。稲作と同じ事である。紙と文字と言うものが無ければ、広い地域を統治すると言うことはできない。文字は政治を広げてゆく道具である。和紙は日本の紙だと誰もが感ずるだろう。水彩紙はヨーロッパの紙である。和紙と同様に手漉きのものなのだが、その作り方にはいくつかの違いがある。まず材料的に水彩紙は綿花と言う栽培する作物から作られる。一度布として利用された後、もう一度叩きほぐし、ラグという繊維を取り出し、これを紙の原料とする。中国の宣紙は画宣紙と日本では呼ばれ、青檀樹皮と稲藁の混合で作られているが、きめ細かい事が特徴である。和紙は麻、楮、三椏、雁皮、竹、稲藁など繊維が取れるものは何でも紙として使われる。素材感が強く残り、日本的風合いがある。

紙と言うものは不思議なもので、イタリアの紙であるファブリアーノ紙はどこかイタリアを感じさせる。インドの水彩紙はインドならではのものである。フランスのアルシュ水彩紙はいかにもフランス的と言える。和紙が日本的というのはそういうことなのだ。どこが日本的なのかと言われても困るのだが、和紙の風合いを日本的であると言って、異論のある人は少ないだろう。こうした何となく日本的。という世界こそ、年々失われてゆくものだ。日本人が里山の暮らしから離れることで、失われ始めた感覚である。危険な兆候である。よりナショナルであることが、インターナショナルである。日本と言う国柄が身についていない人間は、国際人とは言えないということなのだろう。日本人が文化的に評価される為には、日本文化を国際的な目で見直す所にある。ところが日本人の眼を失った人間に、世界に主張できるような文化を作り出せるわけがない。

こうした伝統的な技術が、先進国の中に残っていると言う所は、世界でもまれにみる特殊な国である。中国の宣紙は昔ほどのものは残っていない。柳田國男が民俗学を作り上げることが出来たのは、先端の学問的状況を持ちながら、伝統的習俗が一般の暮らしに充分にのこっているというという特殊な国柄にあった為である。ドイツなどで研究が進んだのは、民族学であり、異民族の未開発国の民族をを調査するという学問である。そこで生まれ育った人間が行う民俗学的な意味は、世界でも希有な事例であった。和食、和紙、そしてその背景にある伝統的稲作。それを支えた、里地里山の暮らし。これが日本の特殊性であり、世界の可能性だと思う。世界の競争が激化して、世界の崩壊は近づいている。その中で、不時着地点としての日本の文化こそ、日本人が見直し、再認識して行くべき価値あるものだろう。和食、和紙、里山の暮らし。どう守るかである。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本の地価は3分の一に成る。

2014-11-05 04:51:10 | 地域


東伊豆の造船所 中盤全紙 造船所があり、手前にさらに畑がある。岬の突端の行き止まりの場所である。対岸の山との関係が面白かった。こういう場所にも小さな畑がある気持ちが共感できる。




小田原の舟原付近の地価は下がり続けている。小田原の地価の公示価格がそのことを表している。日本の地価は3分の一に成る。という本がある。現在の小田原の土地価格の平均は30年前の半分なのだ。まだまだというか、今後はさらに下がり続けると予測される。10年したら、少なくとも今の半分位には成るのではないかと思われる。小田原では人口が微減し始めた所だが、今後大きく減少に入ると予測されている。人口が減少するということは、土地を必要とする人が減少することに成り、価格が下がる。しかし、全体では下落基調の中でも、下落の幅は地域や条件で異なる。農地はどうかと言えば、購入者がまずいないというのが現状ではないだろうか。土地の資産価値と言うものは、戦後少し違った方向に進んだ。土地は不動産と呼ばれる。土地と言うものが生産の基盤であるという所からできた考えである。土地と言うものは、他の財産とは違うものと考えられてきた。

暮らしとしては動かしがたい場として存在する土地。農業を営む暮らしが土地とは切り離されることが出来ない物だったからだろう。祖先から土地を受け継ぎ、そして子孫に伝えて行くものとしての土地。この土地という概念を大きく変えたのが土地を財産として、資産として考えるようになったところにある。土地を投資の対象として購入して、値上がり益を期待する考え方である。資本主義の問題。土地の利用価値ではなく、土地の値上がり益で土地を見る目が、生産の場としての土地を違う目で見ることに成る。特に都市近郊の農地が高騰して、売って銀行に預けておけば、農業生産で得る価格より大きく成ったということである。畑を耕作しないで、土地の値上がりを待つ。あるいは値上がりを期待して農地を購入するということが起きた。この不動産価格に反映しているものが、日本人の日本の将来に対する本音だと思っている。短期の動向は株価や、為替レートが反映するとしても、土地価格は未来を反映している。

土地は本来誰のものでもない。形式として個人が所有しているとはいえ、それはあくまでその一時期の間のことである。土地を利用する形式として所有形態が様々あるにすぎない。土地価格が利用価格から離れた一番の原因は、資本主義によって投資対象として土地が見られることが、際だってきたからだろう。多くの土地が値下がりを始めたことによって、土地と言うものが投資対象から、利用価値へと見方が変わって来る可能性がある。お米を生産するための田んぼの土地費はいくらであれば適正であるかだ。以前は農業委員会から貸借の標準小作料というものが出ていたたが、現在は出されていない。借り手が居ない中で価格を出すことが現実離れしてしまったのだろう。同じ農地であっても、条件によって当然異なる。当然タダでも使えない土地と言うものもある。こうした土地は、そのままでは放棄され、荒れて行くだけに成る。

こうした土地を公共化して行く必要がある。所有者が都会に移住し、農業者でもないし、管理もできないにもかかわらず、所有権だけ持っている農地が多数存在する。今後の見通しであるが、農地に関して言えば、もう一段下がって、動かなくなるのだろう。つまり、安くなっても買う人はいない。買ったとしても管理維持が負担に成る。以前のように、転用の可能性が減っている。だから、使える価格、使用価値で農地はみられるようになる。ほっておけば放棄されてゆくことになる。そこで、国は相続の際には農地のでの納税を認め、農地の公共化を進める。国は貸し出すとしても無料でも借り手はないだろう。そこで、対価を払って農業利用してもらう。それ以外に、農地の管理はできないだろう。そんなことなら、農業等止めてしまえという意見があるだろう。そこで、日本の国土をどうすべきかの大きな議論が必要になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

貧困率

2014-11-04 04:40:10 | Peace Cafe


平戸の教会 中盤全紙 随分前に描いた絵である。それをまた引っ張り出して描いている。もう実際の所とは似ても似つかない絵になっているのかもしれない。






貧困率とは、一世帯の所得が平均値の半分に満たない人の割合がどのくらいいるかと言うことで、比較する数字である。例えば日本の一世帯の平均所得が、500万円だとすると、250万に満たない世帯を貧困世帯と考えて、その比率を表すことに成る。本当は平均所得ではなく、国民全体を所得順に並べて、その中央に位置する者の所得を中央値とする。その半分以下の人より、低所得の人を相対的貧困率の人と呼ぶらしい。子どもの貧困率という見方もある。貧困世帯に生活している17歳以下の子どもは15.7%。貧困の目安は、年間収入から税金や社会保険料を引いた「実際に使える金額」が4人世帯で250万円、3人で217万円。と言うことのようだ。しかし、この数字はあくまで比較上の数字で、世界各国の暮らし方の違いで、単純な比較はできない。特に工業化した先進国と、発展途上国とでは、貧困率だけで比べると、不自然な数値に成る。分りにくい数字なのだが、厚生労働省の説明をよく読む必要がある。

いずれにしても、日本はOECD加盟国中第2位と言うことである。アメリカたと肩を並べた格差大国に成ったということに成る。日本が貧乏な国でも仕方がないと思うが、格差が大きな国に成ったということには、全く失望する。1億総中流と言われた日本が、いつの間にか、格差大国に成っていたのだ。誰がこんなことを望んで頑張ってきたと言うのか。日本が間違った道を突き進んでいる。等価可処分所得の中央値の半分の額に当たる「貧困線」(2012年は122万円)に満たない世帯の割合を示す「相対的貧困率」は16.1%だった。これらの世帯で暮らす18歳未満の子どもを対象にした「子どもの貧困率」も16.3%となり、ともに過去最悪を更新した。日本人の6人に1人が貧困と言う恐ろしい数字だ。アメリカ型社会に日本が成ってきたということのようだ。

富裕層が徐々に増加する社会。端的にいえば、能力主義社会が徹底してきたということだろう。農村でも、横並びではなく、企業的営農農家は高収入を上げると言うことになる。優秀な農家の人が、豊かになる。当たり前のことのようだが、それが極端化してくると、暮らしにくい社会という事になる。アメリカのような社会は、慈善という精神がキリスト教精神からあるようだ。所が日本社会には、自業自得というような、自己責任と切り捨てる空気がある。これが格差社会を悲惨なものにしている。路上生活者の追い出しという事が全国で行われている。路上生活者に中学生が花火を投げたり、石を投げたりする。先日知り合いから聞いた話では、橋の上から、6,7人の鴨宮の中学生が、花火を投げていたという。女子も混ざっていて、自転車で遠征しているという。社会の空気が中学生にも影響しているのだと思う。中学生の中に自業自得だからいじめてもいいというような気持ちがある気がする。ひどいことだと思う。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

楽しい最小限の自給生活

2014-11-03 04:15:07 | 暮らし


東伊豆 中盤全紙 岬のドンずまりの所にある舟の工場である。こんな形で家を描く事はめったにない。この時は家の戸向こう側の山の関係に惹きつけられていた。





「本来無一物。何れの処にか塵埃を惹かん。」南宋禅と呼ばれる慧能は、曹洞宗につながる人。その人の言葉である。自給生活というのはそういう事だと思っている。これからの自給生活はこうありたいと持っている。フランスにいた頃、狭いアパートの中で、モヤシ作りをしていた。絵を描くこと以外にやることもなく朝から、晩まで、絵を描いていた。良くもあんなに絵を描きたかったものだと思う。たぶん、一種の病気状態だったのだろう。失語状態だった。相当危うい生活だったと思う。その中で、モヤシを作ることをしていた。タッパーに黒い絵の具を塗って、なかに脱脂綿を敷く。少し湿らせて、モヤシの種を播く。小さな豆の種だった。そのモヤシセットは日本に帰る誰かにもらったのだと思うのだが、覚えていない。見る見る伸びてくる。これを繰り返して食べていたのだ。自分が生きているということを知るのは、モヤシの伸びる姿ぐらいだった。モヤシが音を立てて伸びてくるような絵を描いていた。それが救いだったとは思わないが、何か生命につなっているという感覚はあった。あの2ミリくらいの種は何の種だったのだろう。たぶんアルファルファーの種だったのではないか。

カイワレ大根モヤシのように窓辺に置くと言うようなものではなく。暗い箱の中で、もしゃもしゃ伸びた。伸びたならば窓のそばに置くと一日で緑に成った。栄養不足を補うという感覚はあった。金沢にいた頃も自炊をしていたのだが、やはり、モヤシは良く食べた。一番安かったからだ。まだあの頃はモヤシを育てると言うことにまでは頭が回らなかった。10円でそこそこのビニール袋入りがあった。モヤシだけを学校の帰りに10円を出して買う。そして、家にある卵といためる。後はご飯を炊く。お米はいつも買ってあった。お米を作っている友人から、分けてもらった。モヤシは最小生活の材料である。自給生活の第一歩である。そしてお米はどのような暮らしでも基本である。フランスに居た時も、安いお米で暮らしていた。お米は安い。保存がきく。一食分買ったとしても20円くらいである。モヤシと、卵と、ご飯で、50円で何とかなる。それを自分で作れば、1食30円で収まるだろう。

自給生活は工夫が面白い。そんなテレビ番組があるくらいだ。貧乏暮しを中々いいと思って暮らしていた。今は畑があるから、さして苦労せず食べるものは、いつでもある。今なら、夏蒔いた、葉物や大根が草に負けずに、生育している。サトイモやサツマイモは、草なぞ平気である。ほったらかしだから良く出来ている。完全に食の自給をしても、一日1時間年365時間働けば、食べるものはできる。これは私が25年間自給をしてきた結論である。ただし、共同と言うことが重要である。自分ひとりで孤立してやれる人もあるのだろうが、共同してやれば、楽しくさらに楽にできる。田んぼに関しては、一人が30坪60キロになります。麦は10坪で10キロ 大豆は10坪で10キロ但し、裏表になるので、併せて10坪です。お茶は5月の一番茶で10坪で実際には12メートルほどの畝となります。1.2キロのお茶が出来ます。夏には同じ10坪程度でやはり1,2キロの紅茶が出来ます。野菜は30坪で一人分の自給畑になります。この中に3坪のハウスがあるといいです。果樹は柿、枇杷、みかん、プラム、栗の5本でと鶏の緑餌で20坪ここに鶏小屋がある事になります。

以下おおよその時間

お米に必要な時間は年間150時間。棚田で水回りの難しい所だと、このくらいの時間に成る。その他麦、大豆は必要として、併せて50時間ぐらいか。お茶が20時間。野菜が全体で100時間あれば十分できる。タマネギ、ジャガイモ、は併せて20時間。味噌醤油に20時間。果樹と鶏で20時間と言うことになります。際毎日5年間記録してみて、そこまではかかっていません。365日で割ってみるとおおよそ、1日1時間という事になります。

条件によって必要時間は大きく変わる。楽しんでやれば、一日1時間という農作業は気分転換ぐらいだ。毎週末農作業をやるということなら、勤めていても十分にできる。しかし、こういうことが負担なく出来る為には、技術力である。充分の技術を背景にした観察力が必要である。そして実践力。口先だけでは自給はできない。これがいい所だ。草取りでも良いタイミングでやれば、半分の時間で可能だ。不要な草取りをしていて、時間を費やすぐらいなら、今何が必要なのかの洞察力である。これが自給作業の一番楽しい所だ。例えば、今の時期キャベツは草に埋もれながら生育している。その方が、虫にやられない。手間をかけて草をとって、すっかり虫に食べられるということが一番ばかばかしい。今になって万願寺シシトウが豊作である。甘くてとても美味しい。初夏にはカメムシにやられて弱っていた株が、今再生している。あの時見捨てなくて本当に良かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

風呂川柳

2014-11-02 04:26:29 | 身辺雑記


松本 中盤全紙 アルプスを描きに行った帰り道、実に面白い景色に出逢った。暗くなっていたのだが、もう一度描いてみた。



コロナの湯では2回目の風呂川柳の募集があった。色々作り、清書して投句しようと持って行ったら、昨日で締め切りが終わっていた。どうもこういう事が多いい。それで良いのだが。今度こそ最優秀賞を取ろうと、色々作っていたので、少しはがっかりした。がっかりしたと言っても、落選ばかりかもしれないのだから、まあ良かったかもしれない。全く未発表というのも、残念なので、一応作った句はすべてブログに記録しておくことにした。第3回に使えるかもしれない。こうしてすべて並べてみると、出さないで良かったのかもしれないと、今更ながら思えてくる。それでも、他人にどう思われようが大丈夫というタイプなので、川柳の落選位、堂という事はない。

柚子菖蒲 カボチャにツリー 風呂で知る

赤い糸 健美効炉で 結い直す

日本人 銭湯があるから 負けないぞ

盆すぎて 一匹のアヒル 湯に浮かべ

外仕事 暑さ寒さは 風呂場まで

さあ明日だ 心のとげ抜く 湯舟かな

長寿の湯 長湯するなと 声がする。

帰りしな けっこうな湯でと 茶の師匠

湯船から 昨日をしのんで 明日想う

湯けむりに 今宵箱根か 草津の湯

風呂行くよ 万歳叫ぶ 孫三才

合格だ 入る湯舟に かぼちゃ咲く

しまい風呂 ぬいだ仮面の 厚化粧

風呂はある 「神田川」を やらされて

かんしゃくの 玉の溶け行く タンサン泉

一日の汗 流しながら見る ドラえもん

大丈夫か あまりの長湯に つい聞かれ

「いい湯だな」 ふと口にした 小学生

風呂マナー 心が一番 洗われる。

退院後 湯舟の中で 手を合わす

風呂おけで 勝利を約す 少年団

父子風呂 春から夏へと 花が咲く

ガンコ者 しわと口先 湯が溶かす

22が4 23が6と 小学生

胸騒ぎ 湯ったりしたら ほっこりと

体重計 息を止めて もう一度

定年後 皆勤賞は 風呂屋だけ

野天風呂 背伸びしてみる 跨線橋

雨音で 眼を覚ました 露天風呂

今日一日 風呂でゆったり 閉じて行く

風呂友は 十年になるが 名を知らず

ひとっぷろ 浴びてくるかと 猫に告げ

口が過ぎ 長い風呂なり 明日思う

酒匂川 今日から明日へと 湯舟行く



川柳は言葉の体操である。言葉も使わないと、ギシギシしてくる。川柳的に言葉を使うのは実に楽しい。そして有効である。川柳は笑えるかどうかだ。あるいは、そうだよなと共感を呼べるかだ。評価の基準が割合はっきりしている。自己評価基準からしてみると、何とも無意味なものが10はある。全体としては、笑いが少ない。郷愁っぽい。前回の優秀賞に笑えるものが全くなく、どうも選者の好みが、笑いより共感の方だなという感想を持った影響かもしれない。こんなことではだめだなあー。というのが先ずの感想。第3回にはもっと元気な、明るく笑える句を作りたいものだ。毎日1句は元気の源。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする