人は一日一日を楽しく生きなければならない。楽しい日々には免疫力を高める力がある。怖いとか苦しいと言う気持ちは免疫力を破壊して行く。笑いが免疫力を高めるというのは正しいことだ。前向きな努力をする精神の集中は、免疫力を高めている。
病は気からと言うのは本当のことなのだ。明るい気持ちで今日一日を生きる。前向きに生きるためには目的が必要だ。のぼたん農園の完成を目指す。ひこばえ農法とあかうきくさ農法を確立する。自分が描いたものだと自分が認められる絵を描く。農作業を行い、絵を描く日々を楽観して生きる。
ひどい殺戮と言えるような戦争が、ガザ地区とウクライナで続いている。このことを見聞きすると、意気消沈してしまい、滅入ってしまう。忘れて良いことではないのだが、思い出したくないことだ。知っておきたいと思うが、テレビでは見るに堪えない戦争の場面だ。ただでさえ辛いことが続く格差社会である。
どうにもならないことは、受け入れるしかない。大切なことは戦争の悲惨を認識した上で、自分のやれることに邁進することだと決めている。何も出来ないガザの虐殺をどうしたら良いかと、何も出来ないことを悩むよりも、自分が今やっていることを全力でやることしかないと考えている。
絵を描くことである。自分のすべてで絵を描けるかに尽きる。今自分にやれることは絵を描くことである。そうだ思い出した。金沢大学が閉鎖されていた頃、旧生協のアトリエにヘルメット姿の中核派の人達がやってきて、この事態に何故お前は絵を描いているのかと問い詰められた。あのときと一緒だ。
確かに私の絵が戦争を終わらせることに役立つとは思えない。しかし、どれほど遠いことであるかも知れないが、絵を描く以外に出来ることはないと思っている。中核派の人達にもそう答えた。「大学を占拠することと、私が絵を描くことのどちらが、社会変革に有効なものかはいつか分かるだろう。」
戦争の悲惨な気持ちに巻き込まれて、暗い毎日を送ることはしない。戦争ほど悲しいことはない。戦争で解決できることなど何もない。考えたところで、自分に直接出来る解決方法はない。絵を描くことしか出来ない。それが藝術の役割だと考えている。具体的には何の役にも立たないのだが、絵は人間性を豊かにする。戦争などしない人類になる為の方法だ。
死を考えることほど辛いことはない。生きて活動をしている自分が断ち切られる事を想像することが辛い。これは他の動物にはない、大脳の発達した人類の性だ。死は訪れる。その死をどう受け入れるかが、宗教である。しかし、どのように考えるにしろ、信ずるにしろ、死はただ消え去ることだ。
子供の頃は死ぬと言うことの恐怖で寝れなくなったことがあった。おじさんから、死ぬと言うことは眠っているような状態だと言われたのだ。眠っているような状態が永遠に続くのかと考えたら、眠るという状態そのものが恐ろしくなった。
身動きできず、目が覚めることも出来ず、ただ暗闇の中に存在する自分。金縛りに遭ッたまま、永遠にいるのかと思い込んだのだ。生き埋めになって居るような状態を死だと思ってしまったのだ。この最悪の状況の想像で恐怖にとらわれてしまい、泣き続けてしまった。恐ろしくて眠ることが出来なくなった。
その後数ヶ月は死にとらわれた。夜になると寝ることが怖くて泣く毎日だったのだ。死の恐怖から抜け出る為に随分と時間がかかった。多分トラウマと言われるようなものの一種ではないだろうか。時々死のトラウマがよみがえった。そのことが、得度をする一番の気持ちだった。
坐禅修行をすれば、生と死を明らかにする事ができ、死の恐怖から逃れられると考えた。坐禅修行を全うすることは出来なかった。一向に生と死が明らかにならないと言うことがあった。坐禅だけをして死に至ると言うことが、より死の恐怖を高めたのだ。
具体的な行動を生きている内にしたい。この気持ちを捨てることが出来なかった。坐禅だけをして何もしない生き方に耐えられなかった。何かを得るための修行は乞食禅だと言われた。それであれば、生と死を明らかにするための坐禅修行だって、おかしいだろうと思うようになった。
絵を描く方が良いと考えるようになった。描いた絵が人のために役立つかも知れないと考えた。人のために役立つのであれば、生きている自分を承認できる。今生きると言うことを充実させること以外にない。と考えるようになった。それ以来絵を描く毎日を生きてきた。
描いた絵が人のためになる。30代まではそのように考えて絵を描いていた。絵がいくらかでも人のためになれば、最終的には世界が変るのではないかとまで、妄想を抱いて絵を描いた。冷静に考えれば甘い空想であるが、少なくとも自分の方角はそこにあると考えていた。
それが出来ないと考えるようになったのは30代後半であった。自分の絵を描く力が不足するという以上に、絵が世界で力を失ったと言うことに気付いた。人間を変えるような力を絵は日に日に失って行く。絵が現実社会に存在した時代が終わったと気付いた。
絵が人のために役に立つものではないとしたら、自分の生きる方角はどこにあるのか。分からなくなった。この行き詰まりを生きている原点である食べ物から変えてみようと考えた。自分で作った食べもので自分の命を支える。食べ物を作ることから、自分が描く絵の意味が問い直せると思えたのだ。
30代後半であった。山北の山の中で自給生活を目指した。ただひたすら身体を使い開墾をした。今思えば、朝起きて明るくなり、作業を始めるのが待ちきれないほど、楽しい暮らしだった。杉林を切り開き自給自足の場所を完成するのに、五年ほどかかった。この暮らしの充実がもう一度絵を描く気持ちにさせた。
油彩画から水彩画に変わり、描くことを開墾するような気持ちでやってみることにした。食料を生産するように、描くことを自分の糧にしようと考えた。良い絵を模索するのではなく、絵を描くこと自体に充実しようと考えるようになった。食糧自給をしながら、日々の描く生活が始まった。良い絵を忘れて、絵を描くことに集中するようになった。
絵を描くことを坐禅だと思うようになった。只管打画である。出来た絵の事よりも、描くという行為の充実を願った。そうなると絵を描くことが喜びになった。今日一日充実して絵を描くことが出来た。それだけで良いと思えるようになった。
そして、4年前に石垣島に越した。70歳になり、この後はひたすら一番好きな風景の中で絵を描きたいと考えたからだ。農業は小田原に通い、行えば良いと考えていたのだが、石垣島でも「のぼたん農園」を始めることになった。それは良い仲間との出会いだ。
同じ方角を志す仲間と、冒険に出るのは最高の愉快である。自分の出来ることは知れているのだが、沢山の人と力を合わせてのぼたん農園の完成に向かって、全力で向かっている。一日があの山北の開墾生活の頃のように、充実している。農作業の量は少なくないのだが、一日一枚の繪は継続している。
気力が充実していれば風邪を引かないとよく言われる。油断してうたた寝をしていて風邪を引く。気持ちを高めて生活をしていれば、免疫力が高まり病気にもならない。のぼたん農園の完成に向けて、新しい農業技術を模索して行くことは、健康のためにもとても大切なことなのだ。
気力が充実していれば、絵を描くことにも集中して行ける。相乗効果である。コロナも、インフルエンザウイルスも、ヘルペスウイルスも、気力あふれる日々ならば寄せ付けない。ワクチン以上に、楽しい日々がウイルスには有効なのだ。