デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ターナー「レグルス」(1828年ローマで展示、1837年加筆)

この作品については、画家名とレグルスというキーワードで検索にかけたら、作品の主題・意図・効果・見方というのが大体わかるので、私からは蛇足ではあるが若干の補足もどきなことを書きたく思った。

レグルスはローマがまだ寡頭政とか共和政で国を運営していたころの人物で、第一次ポエニ戦役の時に執政官を務めていた。総指揮官として、カルタゴ艦隊との海戦では勝利したものの、遠征先のアフリカ北岸での戦いで徹底した敗北を喫し、彼は五百の兵とともにカルタゴ側の捕虜になった。これは紀元前255年の戦いなので、ハンニバルも生まれていない頃のできごとである。
勢いに乗ったカルタゴはローマのシチリア全面放棄を講和の条件とし、その講和の使節には捕虜になっていたレグルスをローマに送った。レグルスはローマがどのような返答をしようが、カルタゴに戻るように約束させられていた。
前執政官レグルスは元老院で「シチリアをカルタゴに渡して講和しよう」と説得せず、逆に講和など結ばないように説得した。カルタゴの思惑は外れ、カルタゴに戻ったレグルスは暗い地下牢に閉じ込められ両目のまぶたを切り取られた。そして彼は明るい屋外にひきずりだされ陽光を浴びたことで失明してしまうのである。

ずばりターナーの作品は鑑賞者にその陽光を浴びさせることを意図しているのだ。鑑賞者は否応にもレグルスの体験を自らの目で体験するわけで、画面の中にレグルスを捜すことはまったく意味がないことなのである。
18世紀までなら、たぶん暗闇の中で光が射すことはすなわち救いであり、神聖をも象徴できてしまうありがたくも便利なものだったのかもしれない。しかし光の神聖もどぎつ過ぎれば破壊的なもの焼き尽くしてしまうものになってしまう。ターナーはその光の恐ろしさをも作品で持って示したのである。

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