デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



キルギスで大量の瓦発見 唐 最西の拠点跡かのニュースにも大いに関心があるのだが、今日はやっぱり

佐藤琢磨、インディ500優勝…日本人初の快挙

のニュースに胸が躍った。IZODインディカー・シリーズで佐藤琢磨が初優勝したのは4年前、A.J.フォイトがチームに誘ってくれたことでの初優勝だった。いまのチームはアンドレッティ・オートスポーツだがA.J.フォイトでの経験は大きかったことだろう。何度も挑戦をつづける不屈の精神が実を結んだんだなぁと思う。おめでとうございます!

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ワット・スラケートから歩いてすぐのWAT THEPTHIDARAM



タイの仏旗が風にはためいていた









猫がくつろいでいた。






なかの本殿に行こうとしたら、いきなり犬が吼え出てきた。
いかにも敵意丸出しの激しい吼え方で、下手したら噛まれるん
じゃないかと思った。リスクは負いたくないのでさっさと退散。



ちょっと残念な気持ちになったが気を取り直してバス停へ。


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先日、『チボー家の人々』を読んでいることに触れたが、図書館で『チボー家の人々』全13巻中の第8巻を借りようとしたら、なんと「貸出中」とのことだった。
傲岸不遜だし、私の度量の小さいことを自らさらすのを覚悟で書くが、正直、「嘘でしょ!?」という思いと、心の中で誰が借りて行ったんだ?という思いが混在した。
13冊もあるうち、第一巻が貸出中というのは分かる。しかし、よりによって私が今読み進めている第八巻が一冊だけ、それもピンポイントで他の誰かが借りて行ったと言う事実が腑に落ちず、司書さんに訊ねてしまった。「何かの間違いではないですか? 本棚に戻されていないだけなんじゃないですか?」と(笑)。
というのは、毎日図書館に通いつめているわけじゃないけれども、本棚に並んでいる全13巻は、私以外で借りている人がいる様子がなかったと個人的に思っていたのだ。20世紀文学作品の名作でノーベル賞にも輝いた作品であれど、今のこの御時勢に『チボー家の人々』という大長編の古典を読む人が私の住む区域で私のほかに誰がいるんだ?と正直思っていたともいえる。さらに言うなら、第一巻を誰かが借りているというのなら分かるものの、どうして作品の後半のいよいよこれからどうなるのだ?と次々にページを繰りたくなる巻の一冊だけ、くどいようだが、なぜこのタイミングで今私が読んでいる巻のみを借りていく人がいるのだ?と偶然にしてはかなり低い確率でしか起こらないようなことが起こった事実に面食らった次第だった。
上の問いを受けた司書さんは困る以外にできないのは当然のこと。そんなのいわれたって他の利用者が借りて行った以上どうしようもない、あなたは次の順番を予約する以外ありませんという他はないにもかかわらず、なんとなく私に同情してくれている表情を見せてくれた。
まぁこんなことがあったものの、市内の図書館には同じ本を所蔵しているところもあるからそこで借りれば済むことだ。運が向いたら今日か明日にでも手にできるだろう。



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寺院のきらびやかさとは打って変わる



駐車場への出口のようだ



お菓子や日用品が売られている店の裏側に出た


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こういう感じのデザインの建物は僧坊か



金山頂上区を振り返る



出口らしくないが通れそうだ


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愛宕山よりもだいぶ北に日が沈む



日が長くなったなぁと感じる












とはいえ19時前に下山する
となると、ライトが必要だ。


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ゴールデン・マウントからは降りたが、もう一度、登り口へ向かった。












お坊様が出口の方へ。左右の建物は僧房かもしれない。



金山頂上区のチケット売場



20タイバーツとある






チケット売場の画像を撮ったのは当時の某有名ガイドブックに
ゴールデン・マウントへの入場料金について情報が載っていな
かったからだった。これらの画像をもとに情報提供させてもらっ
たら、後日編集者のほうからお礼として改訂版が送られてきた。


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ロジェ・マルタン・デュ・ガールの『チボー家の人々』(山内義雄訳)の分量は、白水Uブックスの分で全13巻である。
作品は昔の世界文学全集が書棚にありましたという世代の人々が「昔の上下段の分で全五冊のチボーも書棚にあった」という類という感じで、読書好きの親がいる家庭にはなじみぶかい作品であるかもしれない。同時に、この手の作品は、かつては読もうとしたものの最後まで読み通したという人が案外多くないといったような典型作品でもあろう。

私は作品を2月から読み始め、弊記事を書いている時点で第7巻「父の死」まで読み終えた。分量的にはこれで半分くらいである。正直、なぜこの作品をずっと放っておいてしまっていたのか自分が残念でならない。この作品は大長編ではあるが、20世紀前半に流行った意識の流れ系のようなものではなく、レフ・トルストイの『戦争と平和』のような19世紀の手法で書かれていて非常に読みやすい。のみならず、作品のテーマの一つに谷崎潤一郎の『細雪』のような門地や家庭教育をめぐる「家」があることも、『チボー家の人々』にどことなく共感し、非常に身近に感じさせ読者にページを繰らせる理由として挙げられるだろう。
従順な生き方を実践し医者としてベストを尽くし周囲から尊敬されているチボー家の息子たちで主人公の一人であるアントワーヌも「若先生」ならではのどこか井の中の蛙状態で、いい歳になってから初めて旅らしい旅に出るときの甘美な不安を覚える心境の描写など、すごくリアルで心の琴線に触れるし、アントワーヌの弟であるジャックの社会的しがらみと旨く付き合うことの出来ない繊細さと精神的な崇高さと度が過ぎる潔癖さと精神の休まることを知らない心の持ち主が身近な女性や憧れを抱いた人物への愛情からの逃避、その自分なりの言訳を芸術に昇華する感情の動きは「このような生き方しかできない人っているなぁ」と思ってしまうほどだ。
さらに兄弟の間だけでなく、チボー家と運命的なかかわりをもつフォンタナン家の人々との繊細な感情のやり取りや会話の間、表情やリアクションの細部までが、真に迫って生々しい描写も読みどころだ。ちなみに、チボー家はカトリックで、フォンタナン家はプロテスタントであり、各々の教派の価値観による径庭が両家の人々の交流の気持ちや関係に影を落とす。私は20世紀前半までの作品で、教派の違いが家々の交流に影響を与えることを真っ向から描いた作品に初めて出会った気がするのだが、いい意味で宗教的なしがらみの緩い今の日本において同じキリスト教でも教派の違いということの難しさを考えさせてくれる小説としても『チボー家の人々』は非常に優れているのではないかと思う。
これらの他にも作品に現れる重要なテーマがあるのだが、自分の中で整理できたらまた書きたい。

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寺院の屋根の修理が行われていた



屋瓦の一枚一枚はこんな感じ。









11月だがカタツムリが。さすが南国。


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ネット上のいくつかのワット・スラケート参観の記事を拝見してわかったのだが、私は金ぴかの坐像があった展望台からさらに上のテラスへの階段をうっかりして見落としてしまい、頂上まで行かず下ってしまったようだ(笑)。














下ってくるのにさほど時間を要しなかった


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