デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





2017年12月30日の夕日。たぶんいつもの山できれいに
見えた今年最後の日の入り(大みそかは雨の予報ゆえ)。

今年もあと二日を残すのみとなった日に、山で北京や上海、紹興、蘇州のことを語り合え、日本の観光地について楽しく話せる中国人旅行者と出会え、楽しい時間を過ごせるとは思わなかった。

さて、今年読んだ本。

『フェルマーの最終定理』サイモン・シン ★★★★★

『北京の胡同』ピーター・ヘスラー ★★★★★

『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア ★★★★★

『ハムレット』シェイクスピア ★★★★★

『北京彷徨1989-2015』山田晃三 ★★★★★

『群盗』シラー ★★★★★

『図説 「史記」の世界』益満義裕, 山口直樹 ★★★★★

『図説 地図とあらすじでわかる!史記』渡辺精一 ★★★★★

『「史記」再説』加地伸行 ★★★★★

『たった独りの外交録』加藤嘉一 ★★★★☆

『父を想う』閻連科(イェン・リェンコー) ★★★★★

『北京閑話―人・もの・街の88話』白井啓介 ★★★★★

『ローマ百景Ⅱ』M・プラーツ ★★★★★

『チボー家の人々』R・M・デュガール ★★★★★

『ふたつの故宮博物院』野嶋剛 ★★★★★

『炸裂志』閻連科 ★★★★★

『ギリシア人の物語Ⅱ』塩野七生 ★★★★★

『蘇州通信-暮らして知ったディープな中国-』藤野彰 ★★★★★

『蘇州慕情』梅原貞晴 ★★★★☆

『中国の五大小説(上・下)』井波律子 ★★★★★

『海の都の物語(上・下)』塩野七生 ★★★★★

『アメリカ素描』司馬遼太郎 ★★★★★

『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』池澤夏樹 ★★★★★

『ロシアについて』司馬遼太郎 ★★★★★

『「史記」再説』、『父を想う』、『ぼくたちが聖書について知りたかったこと』については、感想を書きたいと思っているが延び延びになってしまっている。
越年読書はトマス・ピンチョン作『競売ナンバー49の叫び』と井波律子著『完訳 論語』。

来年も良い本に出会えますように。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「最強のふたり」(2011) ★★★★★
…昨年も見ていたので二度目の鑑賞。こういう映画はしばらくしたらまた見たくなる。

「マラソンマン」(1976) ★★★★★
…ローレンス・オリビエの怪演に度肝抜かれた。

「アンタッチャブル」(1987) ★★★★★

「フィールド・オブ・ドリームス」(1989) ★★★★★
…「アンタッチャブル」も「フィールド・オブ・ドリームス」も字幕版・吹き替え版ともに何度か見ているが、いまになって1980年代後半から90年代のK・コスナーは出演する映画が当たりつづけて大忙しだったんだなぁと思った。

将軍家光の乱心 激突」(1989) ★★★★★

白毛女」(1950) ★★★★★

昨年同様、見た作品数が五作品とは(笑)。しかし映画こそ少ないものの、ドキュメンタリーや旅番組やラグビーとバスケットボールの中継を見る時間が格段に増えたことを思うと仕方がないのかもしれない。でも、来年もいい映画に出会いたい気持ちは変わらない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




司馬遼太郎 著『ロシアについて』(司馬遼太郎全集53、文藝春秋)読了。

勉強になる作品だ…。
読んでいて、私は18世紀後半~20世紀初頭のロシア文学作品およびそれに登場する地の旅行体験から、ついついロシアの歴史を西洋史的な見方でもって眺めがちなんだなぁと自覚した。サンクト・ペテルブルグとモスクワを中心にした大ロシアとロマノフ王朝のロシア史、ロシア革命後のソビエト連邦史と最近のロシア帝国の時事的な本を主に手にしてきた程度に留まっていたといえる。
ロシアは広大すぎるので、ロシアの国内の歴史といっても西側の歴史と東側の歴史がある。日本とロシアを介する人物として18世紀の大黒屋光太夫や、江戸時代の後半のペリーの黒船の前にロシアの船が北海道や仙台に来て幕府と接触したことぐらいしか聞いたことのない私にとっては、司馬氏の『ロシアについて』にある日本とロシアのみならず、草原の国モンゴルとロシア(と清朝)との関わりについての割合が多い記述を一から理解するのは骨が折れるなと思わざるを得なかった。『坂の上の雲』を書くためにいろいろなことを調べた司馬氏は、並大抵じゃないなと改めて思う。
ストロガノフ家がイヴァン雷帝の時代からロシアの歴史に関わってることも初めて知ったし、江戸幕府がロシアという国の存在を「ヲロシヤ」として認識したのはいつごろか、またロシアが日本を情報として知ったのがいつごろか、そんなこと考えたことも無かった。(ちなみに著書に出てくるストロガノフ家と料理で有名なビーフ・ストロガノフのストロガノフ公爵との関係はよく分からない。関係あるかもしれないし無いかもしれない(笑))。
著書の中ではモンゴル帝国の興隆と衰退にロシア帝国と清朝がいかに関わっているのかも触れられている。その内容にも、私も含め多くの人がアジア史のある側面として埋もれていること知らされないことが多いのだと感じた。
ただ、これはもう書かれた時代が違うゆえ仕方が無いのだが、作品がモンゴル帝国やモンゴル帝国後のいくつかの汗国が野蛮だったというイメージから免れていないところにはどうしても目が行く。もし司馬氏が20世紀末や21世紀に入ってモンゴルの地で出土した遺跡がもたらす最新の研究内容を踏まえていたら、モンゴルについての記述はどんな風になっていたろうと想像をたくましくしてしまった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





ルミナリエの開催時期にボストン美術館の至宝展に足を運んだ。


英一蝶(はなぶさいっちょう)≪涅槃図≫(1713)のコピーとの撮影コーナーも






≪涅槃図≫に出てくる動物たちを選ぶことも




これまでに、いくつかの東西の逸品が集められた特別展を鑑賞したが、以前は東洋の展示物についてはいつでも見れるだろうから軽く鑑賞しておこうという、優先順位としては二番目な気持ちで作品を見ていた。しかし、ここ数年、台湾や中国を旅行するようになったり東アジア・東南アジアに関する本を読むようになってからは、アジアの博物品もより丁寧に見るようになっているな、と自分でも思う。
今回の展覧会ではまさかと思うような作品も来ていた。徽宗(きそう)≪五色鸚鵡図鑑≫(1100年ごろ)が来ていて、中国絵画が花開いた北宋時代の皇帝の筆による絵と書にまじまじと見入ってしまった。徽宗については国を文化面で充実させたものの国を軍事的に強くすることはできなかった皇帝、政治家でなく芸術家として生涯を全うしたかったろうことを考えると悲劇の皇帝のように映ってしまうのだが、≪五色鸚鵡図鑑≫を見てもなんだかそのことを感じ取れるようであった。≪五色鸚鵡図鑑≫には鸚鵡の姿のみならず書も付してあり、徽宗独特の書体である痩金体(そうきんたい)も見ることができ、独特のそれも早いタッチで書かれる文字は当時決して真似できなかったろうことも思わせた。
陳容≪九龍図巻≫(1244)の竜の愛嬌のある目には身内や親類が飼っている猫の目を思わせるようなものがあってほほえましかった。若い竜が試練に遭っているのにいちいちカメラ目線をくれる感じというか(笑)。
西洋絵画ではゴッホの作品も来ていたが、ブーダンの作品、そしてジョン・シンガー・サージェントの≪フィスク・ウォレン夫人と娘レイチェル≫(1903)も印象に残った。とくにサージェントの作品は、作品がボストン美術館に所蔵されているというだけでなく、絵がボストンのイザベラ・ガードナー夫人邸で描かれたものであったことも注目し、イザベラ・ガードナー夫人邸は現在美術館として公開されているが、非常に印象深い建物で展示品も目を見張るものが多かったことも思い出した。
神戸市立博物館はリニューアルのために来年2月から二年間ほど休館する。その前に東西の至宝を味わうことができてよかったように思う。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





二週間前、ボストン美術館の至宝展に行った際、夜になってしまったのでルミナリエにも立ち寄った。ものすごい人だった。































































コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




パワースポットの一つといわれているからか、
お祈りの真剣さが身体に現れる人もいる



低音でドスンドスンといった感じの音だった



中には靴を脱いでお祈りする人もいる



この象の置物は日本の寺社でいうところの多額の寄進で
灯篭を建てたり提灯を飾り立てたりするようなものだろう



この祠は女性の参拝者が多かった



現代都市の真ん中にあっても
絶えず人々が訪れる祠だった


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




エーラーワンの祠の梵天

サヤーム駅からラーマ1世通りを東に行くとラチャプラソン交差点、その一角にターオ・マハー・プラマ(エーラーワンの祠)がある。私が訪れた二年後、ここで爆弾テロが起こり少なくない死傷者が出たが、やりきれない気分になったものだ。






願をかける人のお布施次第で奉納の踊りを踊ってくれる女性の人数が変わる。中央にある梵天様へのお祈りおよび奉納は途絶えることなく続いていた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




司馬遼太郎 著『アメリカ素描』(司馬遼太郎全集53、文藝春秋)読了。

英語圏政治・文化研究者の越智道雄氏の著作や森本あんり氏の『反知性主義:アメリカが生んだ「熱病」の正体』に書かれている内容の肝心なところは既に『アメリカ素描』の中に描かれているんだなぁということが、読んでいる途中で分かった。たとえ越智氏の著作が先に出ていたとしても要点がきちんとまとめられていて読者に凄みを覚えさせる描かれ方がなされているのは『アメリカ素描』の方だろうと思う。(失礼を承知でいえば、司馬氏の書いたことの焼き直しじゃないの?と疑ってみたくなる気にさえなる。)
塩野氏の本でもそうなのだが、司馬氏の本を読むと「司馬さんはこうおっしゃっておられる、皆の者、耳をかっぽじって耳を傾けよ」という気になってくる。それだけ面白い内容だし、書き方が痛快なのだ。事実とそれを踏まえた想像を断言調でこう書いているから間違いないという印籠や権威主義が授かった感じというか。
そんな感じで個人的に私は司馬氏の文を読むときは斜に構えて気をつけているのだが、今回、『アメリカ素描』の内容は非常に良く分かるものとして実感できた。アメリカの地でぜひとも足を運びたいところは人によって様々だが、近代・現代のアメリカ文学、マイノリティとされる人々の歴史、カウンターカルチャーの地、アメリカ経済システムがもたらすアメリカ国民の労働者にとっての負の側面、アメリカンドリームの幻想、人種の坩堝、多様性などを短い期間でも体験したい旅の趣向を持つ私も『アメリカ素描』で書いてあることが否応無く分かる。何様のようだけれども、さすがだな先に巡られてしまっていたのだなと思うとなんだか悔しい(笑)。
悔しい羨ましいついでにいえば、司馬氏の戸惑いつつも率直な疑問を同行者、現地での案内人(この案内人も多様性の象徴のような人たちである)をぶつけるくだりは、本当に貴重な体験だったことだろうなぁと思う。向こうの人々にとっては当然のことが訪問者には以心伝心とはいかない。そのことの「ショック」を文に起こすことは困難だ。相手にとっては当然の思考をなんとか理解しようと忍耐強く臨むときに、アメリカの原型なるものを覗き見ることができる。『アメリカ素描』には事前のにわか知識を詰め込んだぺろんとした旅行者である私がいつも求めているものがあった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『海の都の物語―ヴェネツィア共和国の一千年〈上・下〉』 (塩野七生ルネサンス著作集) (新潮社)読了。

『ローマ人の物語』を書く前に、特定の人物や時代ではなく国そのものの歴史を『海の都の物語』で描いたことは大きかったろうなぁというのが読了直後の感想。
同じ作者の本とはいえ『ローマ人の物語』『ローマ亡き後の地中海世界』『十字軍物語』『皇帝フリードリッヒ二世の生涯』『ギリシア人の物語(途中)』と読んでくると、史観のちがいで歴史的事実がどのように裁かれるかといったことや、世界を変えた発明品がいかなる交易ルートに乗ってもたらされ改良されまた世界に普及していくダイナミズムとか、より多角的に歴史を捉えるにはそれなにの時間がかかるんだなぁと分かったようなことを思ってしまった。
『海の都の物語』ではヴェネツィア共和国の歴史を描いているが、自国に資源を持たない国が交易でもって発展するために自国の政治体制をいかなるものにしていったか、また思想や信仰の異なる周囲の国々と交易するうえで肝に銘じたことや外交上のテクニックのきめの細かさについて知ることのでき、とてもおもしろかった。また読んでいて、ヴェネツィア共和国の興隆期が飛ぶ鳥を落とす勢いの戦後の日本の絶頂期と重なるようにも思えたところもある。
もちろん、別々の国が同じ歴史をたどることはない。とはいえ、似て非なるともいえるし、「非て似なる」ようにも感じたが、国が勢いを失う前に先手を打つことができなかった点ではヴェネツィア共和国と日本とでは決定的な違いがあると思える。
国の栄枯盛衰の歴史は国があるだけ存在するが、その歴史に学ばないのみならず、人としての習性をも理解しようともせず、ついついわかりやすさだけを追求していくような衝動は私にもある。歴史を紐解き活用することは耳の痛いことを言われることでもあるが、その耳の痛いことというのは読み手にとってはまるで知らなかったことばかりであることが多い。今回もそのことを痛感した読書となった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




将棋の羽生棋聖、史上初の「永世七冠」 渡辺竜王破る

羽生棋聖、偉業達成、おめでとうございます。野暮なことをいうようだが、「三浦竜王」もしくは三浦九段の挑戦を堂々とした対局で退けた渡辺竜王が相手での偉業達成だったら、なおよかった。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ