デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



皇穹宇の屋根上の厄除け

さて、大韓帝国や大韓民国の「大韓」が現れたのは、端的には、朝鮮国第26代国王・高宗が19世紀が終わろうとする頃に国号を「大韓」に改めたから、というのがその理由だ。
国号が「大韓」に改まったことと前回と今回で紹介する円丘壇の跡と皇穹宇(ファングンウ)とは深いかかわりがある。といっても難しい話ではなく、冊封(さくほう)体制の内容を念頭に置けば私も分かった。


冊封体制おいては一応中国の王朝の天子(皇帝)が一番偉いことになっているので、その時代の中国王朝の皇帝だけが天を祀る祭天儀礼を行なうことができた。中国皇帝が天に祈った施設が天壇だが、冊封体制下にある中国以外の国では天壇に相当するような施設は造らないし、造ったとしても中国皇帝に気を遣って使用しないのが常だった。
だが、天壇に相当するものが朝鮮国に造られた。それが円丘壇である。では朝鮮国はなぜ円丘壇を造ることができるようになったのか。それは日清戦争で清の権威が落ち、朝鮮国が清からの(冊封体制からの)独立を宣言したからであった。独立したからには自分で天を祀る祭天儀礼を行なう施設を造ったというわけである。








サルや犬かな?





1897年、高宗は朝鮮国の国号を「大韓」と改め、これまで中国のものを使用していた元号も光武と改めた。同年10月に高宗は円丘壇で光武皇帝として即位した。大韓帝国の「大韓」という国号と円丘壇の跡と皇穹宇とはこのような関連がある。

高宗の皇帝即位までには清とロシアと日本とが朝鮮国を巡って火花を散らしていたので、即位までの過程や背景を調べれば調べるほど円丘壇の跡と皇穹宇に対して複雑な思いが募った。
翌日の朝に独立門に行ったが、なおさら先に円丘壇の跡と皇穹宇に行っておいてよかったと思った。



ソウル広場が対面に



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乙支路に面した円丘壇への門。
右側に奥の階段への通路がある。

暗くなるまでもう少し時間がありそうだったので、圜丘壇(圓丘壇,円丘壇とも。以下、円丘壇と記す)に行っておこうと思って、清渓川路や乙支路を西に歩いた。

この概要でほぼ分かる


石でできた太鼓

円丘壇が解体された
跡はホテルが建てられた




皇穹宇(ファングンウ)


後ろのホテルは
ウェスティン朝鮮ホテル


皇穹宇は八角形




解体された円丘壇か?

この場所と深く関係する韓帝国や大韓民国の「大韓」って、いつ現れたのか、サッと答えられる人ってあまりいないと思うし、私も韓国の歴史の本に触れたりソウルへの旅行の下調べをするまで答えられない人のなかの一人だった。



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