デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




以前、こちらで触れたように、国勢調査のお知らせにアニメキャラが用いられたのを見たとき、軽く驚いたものだったが、今回は選挙のPRで漫画絵面のキャラが用いられている。ここ数年で、市バスや電車の車両では当たり前のように見られる萌え絵だが、とうとう選挙まで(笑)。もっとも、ほかの自治体の選挙でこういったようなキャラデザインでもってPRしていた例が以前にあったのかもしれないが。
それにしても選挙があることのPRに変化が起こっても、町を選挙カーで走り回り大音量で候補者の名前を連呼している宣伝活動の方法は昔と一向に変わらない。

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メニューが写真つきで壁に

屋台で揚げ物の串などをハシゴする昼食も考えたが、いろいろ見ているうちに目移りして決めるにも決められなくなってしまったので、一般の食堂に入ることにした。


一つの空間に…

食堂に入るとメニューが壁に貼ってあったので右の方に写っているおばちゃんに欲しいものを指さして頼んだが、タイ語で「うちじゃないですよ」みたいなことを言われた。すぐさま左のおじさんの方が、「こっちのメニューはうちだよ」みたいににこやかに言ってくれて、ようやく私は理解した。この部屋の右側と左側では店が違うのだ。


アオ・アン・ニー(これください)と頼んだらすぐに出てきた



これがまた美味しい!

タイにいる間の一般的な食堂や屋台でのご飯には、ずはり外れなしであった。もちろんタイ料理が口に合わない人もいるだろうけど、私は日本でタイ料理の店がある程度の人気を獲得するのも分かる気がしたものである。

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人間国宝・桂米朝さん、肺炎のため死去 89歳(スポーツ報知) - goo ニュース

爆笑王桂枝雀の師匠でもある桂米朝さんが亡くなられた。米朝さんの洒脱な語り口の高座は「持参金」を生で聞いたことがあったけれども、本当に楽しかった。テレビでの高座では「らくだ」「抜け雀」「皿屋敷」「けんげしゃ茶屋」「鹿政談」「はてなの茶碗」…挙げだしたらキリがないくらい見たが、どれも名演だった。
上方落語界にとって心のぽっかりと穴の空いた状態がしばらくはつづくだろうが、米朝一門でも実力のある中堅の噺家が実力を伴わせて落語界をもりあげていくだろう。ご冥福をお祈りいたします。

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屋台街に近づくにつれ、ワット・マハタートの静けさからだんだん活気あふれる賑やかさが感じられるようになってくる。


印刷したてのフリーペーパー?



どの屋台にも立ち寄りたくなるほど
美味しそうな匂いが立ち込めていた


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水道橋公園にて

ここまで「ピーニエ(松)へ」というタイトルで10個ほど記事を書いたが、このピーニエはゲーテの『イタリア紀行』(高木久雄 訳)の「第二次ローマ滞在」の最後の方の記述に登場するものである。松は英語ではpine(パイン)、イタリア語ではpino(ピーノ)やpigna(ピーニャ)と(私の知る限りでは)言うそうだが、たぶんピーニエは松笠を意味するピーニャのことではないかと勝手ながら思っている。(そういえば、アッピア旧街道に平行するように走る通りが Via Appia Pignatelli といったけど、人の姓名になっていることもある Pignatelli って"松笠"が由来になっているのかも!?)

ローマの松や糸杉を初めて目にしたのは書籍(旅行ガイド書や塩野七生『ローマ人の物語』の特集本の中にあるような)の図版だったように思う。
それ以前に見る機会が無いではなかった。しかし美術館や教会めぐりばかりしていて視界に入ってはいたものの、自ら目を凝らしたり触れたりしようとしなかった。当然、風景の中のただの木としてすら、添景とも捉えていなかった。
しかし時が経つ間に、イタリアとローマのをテーマにした書籍やTV特集およびバロックからフランス革命期までのローマ絵を描いた絵などに自ら好んで触れていくうちに、私の中ではローマに行けたなら外したくない風景の一つが古代遺跡とともに立つ唐傘松や糸杉のある風景になっていった。
ガイドブックの表記ではローマ水道橋(Acquedotti)となっているクラウディア水道橋の遺跡のある水道橋公園に着いた時、今回の旅の町めぐり一発目で自分にとってのまさに絵のような唐傘松の風景を見れるのか!最も望んでいたものを散策開始日の最初に目に出来た!と思った。あとで確認すると実際のところは、水道橋公園の着くまでの朝のテルミニ駅前で唐傘松が画像でも確認できるような形で視界に入ってはいたようだ。ただ、水道橋公園の松を見てからというもの、旅の過程で遺跡のある場所に寄り添うように立つ松を見つめたり眺めたりするようになったのだった。
いつものひとりよがりだが、パンニーニやピラネージ、フラゴナール、ユベール・ロベール、ターナーといった画家たち、ゲーテやバイロンのような作家・詩人も、きっとこういったローマ近郊の姿を目にしていたのだと思う。もちろん、現地ではここに挙げた芸術家たちの名前など意図的に頭に想起しようとはせず、ここではないどこか、ではなく、ここでしかないもの、にただただ感動していた。そしてこの時に気づくはずもないのだが、水道橋公園の唐傘松の印象は、のちの私に思いもよらぬ効果を与えるのである。

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ガイドブックおよびアジア系の女性が教えてくれたとおり、通りを直進していけば建物はなくなり木々が茂る公園らしきところに着いた。


運動がてら散歩する人たちもちらほら見かける



これはまさか水道橋の上部!?
中央右に見える縦の長方形の
穴が水路ではないかと思った。

きっと水道橋の一部が崩壊したものを公園の端にもってきているのではないかと思う。

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イングリッド・バーグマン主演の映画『追想』(1956)(原題は"Anastasia")を鑑賞。

先日の『スパルタカス』同様、また、一度目に分からなかった映画も、時を経て見てみれば傑作であるゆえんを感じることができるという体験を今回できたように思う。『追想』は映画を乱読ならぬ乱鑑賞していた頃に一度見たことがあったけれど、内容を忘れてしまっていた。自分でも笑ってしまうが、この映画、こんな「シンデレラ」「カバーガール」「マイ・フェア・レディ」展開だったかな?と過去の自分の記憶に疑いを禁じえなかった。
ただ初見時にはアンナとボーニンの策略がうまくいくのかそれだけしか関心がなかったが、今回はやっぱりあの頑固かつ聡明な皇太后の存在なくしてこの映画は成り立たないということはよく分かった。ロシア革命を経あらゆる物事をつぶさに見てきた人物像をうまく作り上げているといえるだろう。皇太后がアンナと「再会」した場面の「万が一本人ではないとしても私には黙ってて」(But, oh, please, if it should not be you, don't ever tell me.)このセリフは多くの観客に切なさでもって感動を覚えさせたように思う。
それにしても邦題の「追想」って、どういう意図でつけたのだろう。ひょっとすると「追想」というタイトルをつけた人にとっては、ロシア皇帝に仕えていた人たちの追想を策略のため補完するための演技を繰り広げるアンナよりも、皇太后やその侍従たちの過去の栄華のほうに心がとらわれたのかもしれない。

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地下鉄A線スバグスタ駅を出て、ガイドブックのとおりの方向へてくてく歩いていった。


この辺りは一般的な集合住宅が多かった

ローマ中心部から少し離れると観光地という感じはしない町並みになった。この画像の手前ぐらいで家の前を箒で掃いていたアジア系の女性に念のため水道橋公園への行き方を訊ねた。あまり観光客から訊かれたことはないのだろうか、少し警戒?されたがガイドブックの写真を見てもらったらすぐに「この通りをそのまままっすぐ」と教えてくれた。


一概には言えないが、ローマではピカピカに



洗車された自動車をあまり見かけない。


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洋画(映画)で今年初めての最初から最後まできっちり観た作品は『スパルタカス』になった。(ちなみに邦画では広告業界を舞台にしたコメディ『ジャッジ』がそうである)
『スパルタカス』は10年以上前に見たことがあったので、二度目の鑑賞だったのだけれど、今見たほうが圧倒的におもしろいな、と思った。最初の鑑賞ではすぐに「いい者、悪い者」の区別をつけて見たり戦の場面の凄惨なカットに驚いて「すごい!」とかいった感想しか抱かなかった。見ていて正直「早く終わってくれ」と心の中で思っていたところがある。
しかし、二度目の鑑賞だと映画に出てくるクラッススが古代ローマ史でいうならどのあたりの人物で、若き日のカエサル(映画では史実をあえて「改変」している)が台頭しようとしている背景がある程度分かった状態で見れたし、クラッススに対峙する元老院議員になぜグラックスという名前を付しているのかといった鑑賞者をニヤリとさせるような設定を楽しむことが出来た。
そしてクライマックスの会戦の場面に対する制作者の凝りようは、並々ならぬものがある。会戦でのローマ兵団の統率、隊列の一糸乱れぬ動きをあれほど大掛かりにうまく再現するとは、相当な数のリハーサルを敢行したのではないかと思う。
今回の鑑賞でしばしば起こる、初見時にはまだまだ内容を理解するほどの精神の段階には至っていなかった、といったことに気づかされる経験を得たといえるかもしれない。また、一度目に分からなかった映画も、時を経て見てみれば傑作であるゆえんを感じることができるという体験をしたいものだ。

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盗まれたルピタ・ニョンゴのオスカードレス、偽の真珠と知った犯人が返却(シネマトゥデイ)

リンク先のこのタイトルだけで、すぐに内容が分かる。不謹慎なようだがどうにも要領を得ない一言であろうと分かりつつも、何かを書きたくなってしまうような顛末をむかえてしまったようだ。
ルピタ・ニョンゴもドレスの着付けを担当した人も、真珠が本物かどうかなんてじっくり見ないだろうし…。こうなったら、鑑定士の鑑定が誤っていたことを祈る…。

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