デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



立派に咲いている木もある(土曜に撮)



日曜に撮


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佐藤優氏の本を初めて読んだのは、2007年の正月ごろだったか。手嶋龍一氏との対談『インテリジェンス 武器なき戦争』だった。
今年に入り、佐藤氏が書いた本を数冊(『インテリジェンス人間論』『国家の罠-外務省のラスプーチンと呼ばれて-』『自壊する帝国』)と、塩野七生氏の『ローマ人の物語』を主に読み進めているのだが、その反面、極端に小説を読む回数が減ったと我ながら驚いている。両氏の作品は私にとって非常に大きい存在なのだと思う。
佐藤氏と塩野氏が書く内容は扱っている時代やジャンルは少し異なれど、孤高さを感じさせるような博学に加え、自身の生身の経験から語られるから非常にリアルで迫力に満ち重みがある。また既存の研究のちょうちん記事を書くことはしないし、既存の研究を踏まえたうえで、自分の仮説を熱く開陳し、しかもその内容が物事の本質を穿つものであることが少なくないから、読んでいてとてもおもしろい。
そうこうしている内に、特に先々週の日曜日だったのだが、佐藤氏の『自壊する帝国』を読み終えたあと、小説を読むのやめようかなと、ふと思った。
私は、ドストエフスキーの『罪と罰』を読んでからというもの、小説の舞台を訪ねに現地まで行くこともあったし、小説にこそ人間や国民性、社会、国家といった「世界」の本当の姿や真理を描いてあり、それこそ人類の英知だと思っているところがあった。すぐれた小説には私の周囲の人間関係やさまざまな問題を解決する大いなるヒントがあり、生身の問題にそのヒントが応用可能かもと思っていた。もちろん、それは少しぐらいは、的を射ていることもあるかもしれない。
しかし、佐藤氏や塩野氏の作品に触れると、自分があまりに物ごとを知らなさ過ぎていると痛感する。とくに長い間現実のロシアを実質的に肌で感じた佐藤氏が語る内容は、国民や国家や宗教、そして人間を一言で説明することなどとても出来ないことの好例だと思う。繰り返すようだが、佐藤氏の本を読むと小説を読むのやめようかなと思うほどなのだ(少なくとも私にとっては)。
そんな中で、その佐藤氏とロシア文学者・亀山郁夫氏の対談『ロシア 闇と魂の国家』をこの前の日曜日に読み終えた。ロシアに対して知り尽くし、なおも知ろうと日々研究する二人の対談は非常に濃いものだった。対談の中に『カラマーゾフの兄弟』の話も出てきたのだが、その内容が以前私が持っていた「カラマーゾフ観」を根本から覆すものだった(笑)。『カラマーゾフの兄弟』は二度読んだことあるが、私は自分の好きな箇所の感想を述べるぐらいで、小説を読めていなかったと思った。久々に小説の「読み」についてガツンとやられた感じだった。
そんなわけで、しばらく『ローマ人の物語』を中断し、昨年の異例ともいえる古典のベストセラー『カラマーゾフの兄弟』をまたボチボチと読もうと決めた。今度は亀山郁夫氏による新訳の分で。きっと、今ならむちゃくちゃおもしろく感じるだろうなぁ。そんな気がする。

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野球  


なにはともあれ、今回のWBCの勝利はうれしかった。ひさしぶりに美味しい酒を飲んだ。

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一昨日に撮。

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風の辿り着く場所 (on whistle)

この曲については以前にも挑戦した。まだ口笛に徹しただけ、まだマシになっているかもしれない。
以前にも書いたとおり、これはkanonというアニメのEDだ。再度弾いてみた理由は、kanon自体、冬から春にかけての話だから、ということもあるかもしれない。

弊YouTubeチャンネル

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ユベール・ロベール「ポン・デュ・ガール」(1786)

世界史をやってない私でもアウグストゥス(オクタヴィアヌス)が初代ローマ皇帝であることは知っていたが、彼は自分の思うとおりにやりたい放題する絶対君主とは異なっている。本の内容を私なりに整理すると、
・アウグストゥスは武力闘争で勝ち抜いて権力を掌握したが、それなりに元老院の顔や市民集会の顔を立てたそうだ。だから自ら「皇帝」などとは名乗らないまま、事実上の帝政を敷いた。
・統治にあたっての肝心要な権限は死ぬまで持ち続け、また偽善や嘘をついても結果的に巨大化した国で発生する種々の問題を効率よく解決していき、ローマに平和をもたらした。
大体、こんな感じか。
国の構想や創造性ではカエサルに及ばないアウグストゥス。しかしアウグストゥスはカエサルの指針を実行に移し、それによって生まれた新システムが正確に運用されしっかりと継続されているか「監視」することを怠らなかった。ローマ帝国の礎を築いたアウグストゥスは、実行力のある政治家の手本といえるかもしれない。
またアウグストゥスのもとで活躍したアグリッパやマエケナスも、アウグストゥスの政治力を支えた大きな存在だった。偉大な政治家、というより大きなことを成し遂げる人間の側には、必ず影となって実務的な"お膳立て"や、難しい職務をときに機転を利かせて完遂させる人がいる。良い側近を得た政治家が歩む道を、第6巻で知ることが出来るといっても過言ではないかも。
ちなみに皇帝の右腕として働いたアグリッパは軍事だけでなく、地方を統治する上で拠点となる都市を造った。彼が造らせた公共建造物は数多く、冒頭にある18世紀のフランスの画家ユベール・ロベールが描いた「ポン・デュ・ガール(ガール橋)」も彼が建てさせたことを初めて知った。フランス南部に造られたポン・デュ・ガールはニームという町へ水を供給するための水道橋だが、これは現在も遺っている。ポン・デュ・ガールに観光で行った人のレポートを読んだことがあるが、想像以上に大きかったそうだ。技術力にも長けていたことの証なのだと思う。

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まさか花が咲いている木があるとは思わなかった。もちろん他の桜の木はまだまだだった。

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フェデラル・ホール・ナショナル・メモリアルのジョージ・ワシントンの像を後ろから

このご時勢からすれば、これらの写真が人の目にどのような形で映るのだろう…。


お昼時



ニューヨーク証券取引所



テレビリポーター:何度も撮り直していた



個人的に最もウォール街らしいと思った瞬間


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先日、以前に譜面台のことで業を煮やした楽器店の有線放送から流れていた曲に、ふと心奪われて立ち尽くしてしまった。
曲が流れている間に、私は店員さんに曲をしっていますか?と訊ねた。店員さんは知らないということだったが、彼は次の一言を付け加えた。
「調べたら分かりますよ」
あのう…どうやって調べろと言うんでしょ? なんという無責任な一言かと思い、突っ込む気にもなれず、次に流れだしたビリー・ジョエルの「素顔のままで」を耳にしつつ店を後にした。
後日知ったのだが、携帯電話にその場で流れている曲を聞かせるだけで、タイトルとアーティスト名を探してくれるサービスがあるそうだ。そのことを彼は言いたかったのか? 突っ込まなかった私も私だが、中途半端に「調べたら分かる」などと言い放った彼も彼だ(笑)。
こういった場合、日本語の歌ならまだしも、外国語の歌なら本当に困るよなぁ…。歌詞検索で調べようにも、聞き取るのは厳しいし、そういった前提だけで、見つかる可能性が激減してしまう。また、洋楽に詳しい人でも曲は無数にあるわけだから、好きな曲のジャンルが異なれば聴いたことある旋律とそれを歌っているアーティスト名を誤解していることもある。
ところが、なんと店で聴いた曲は見つかったのだ。ここ数ヶ月、暇を見つけてはオムニバスCDを借りあさっていて、それを改めて順に聴き直していたら、探していたその曲が入っていた(けっこう有名な曲らしい)。だが自分の中ではノーマークの曲だった。
これは想像だが、その曲はずっと以前に聴いたことのあるもので、頭の片隅に残ってたのかもしれない。それがすでに自分の集めたCDの中に入っていたが、適当に聞き流し、時が経ってからの別のシチュエーションで心を占める風に聴こえたのだろうか…。

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ミレー『春』(1868-73)

画家によっては《四季》を表す作品の注文を受けることがある。《四季》の絵といえば、ルーヴルで見たニコラ・プッサンの晩年のシリーズが印象に残っているが、それは聖書にテーマにした作品だった。
ミレーも《四季》の注文を受けた。先輩画家のテオドール・ルソーのパトロンであったフレデリック・アルトマンが、ルソーに《四季》を注文していたが、ルソーが1867年に亡くなり、そこでミレーに注文がきたわけである。
ミレーの《四季》の内、オルセー美術館で私が覚えているのは、この『春』だけである。といっても作品を見たときに、《四季》として描かれた一枚、ということも知らなかったのであるが(笑)。
もし、部屋に飾ろうとしたところで、私なら正直迷うような絵だ。どういった部屋ならこの絵がいきますか?と、インテリアに詳しい方に尋ねてみたい。もし、これをご覧になっておられる方で、ミレーうんぬんなしに「私ならこういった部屋にこの絵を飾る」というご意見をお持ちの方、ぜひコメントお待ちしています。
作品の話に戻ると、バルビゾン派の風景画の特徴として、ルプソワール(画面の手前を暗くすることで奥行きを強調する方法)が用いられており、風景はとても広く感じる。ルプソワールに加えて、二重の虹の描きかた、そして野道をたどるように見ていくと、中央からちょっとだけ右に、木の下で雨宿りしている人物が小さく描かれていることが分かる。私の撮った画像では分からないが、下の図版なら分かるだろう。


はじめこの絵を見たときは、ミレーという名前負けしてありがたく鑑賞したのだった。一見、ゴチャゴチャした絵で、虹だけが綺麗だなとか思っていた。しかし、そのゴチャゴチャは、しっかり作品を見るとミレー晩年の真骨頂である細密さそのものなのである。人が描かれていることが分かったとき、驚くというよりビビったという感じだった。えぇ!?人がいるのかよ!と(笑)。 この人物が描かれているせいで、この作品にはいろいろな解釈がなされたのだそうだ。
間近で見たり、離れて見たりしているうちに、春ってこういう感じのときもあるなぁと、思った。雨雲に支配された空のなかで見られる少しだけの青空(右上に見える)なんか、特にそうで、雲の動きが足早であることを思わせるところなんかそうだ。
この作品も、オルセーに行かれたなら、ぜひじっくりと見て欲しい作品だ。日本に来たことがあるかは知らないが、個人的にはぜひ来て欲しい(笑)。

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