デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



前回とはまた別の日にやってきた。













しばらくは変わり映えしない画像がつづく。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




レイ・ブラッドベリ(伊藤典夫訳)『華氏451度』(ハヤカワ文庫SF)、読了。

読了直後は、すごい小説だ!、世の中の何もかもがスピード化し読書の感想をまとめる時間どころか書物を自ら読まなくなり、自ら思考しようとする人を危険視し取り締まろうとする社会を舞台にした作品を描いた作者の先見の明に舌を巻いた、と勢い余って人に語って聞かせたくなるほど興奮した。
アメリカでは戦前には商業テレビ放送は開始されていたとはいえ、作品が1953年に書かれた時点で、人々がヘッドホンステレオおよびパソコンやスマホにイヤホンを挿し耳にあてて自分の世界に閉じこもったり、TVやインターネットを介したバーチャル世界での自分に割り振られた役割に充実感を見い出し、まるで「いいね!」の評価を得ることが最も重要で心的に満足する価値観に疑いを抱かないような世の中を描いて、実際、予見しているところは素直に驚きを禁じ得なかった。私だって作品をイヤホンを耳につけて読書し、ファーストフード店でそれこそ作品に出てくる婦人たちのような人の会話が否応なく聞こえてくるなかで弊ブログの記事に何と書こうか考えていたりし、そしてヘッドホンのスピーカーを耳に当てながらこの記事を書いているわけで、まさにブラッドベリが描いた世界に出てくる道具≪巻貝≫を使っているのだしなおさらだ。
ただ、読了して約2か月経ってみると、過去に周囲の人が作品について熱く語っていたその気持ちは分からないではないし、私にとって衝撃作であることに変わりはないが、第二次大戦後から8年しか経っていないなかで作品が書かれたという時代背景を鑑みても、私はどうしてもある不満を覚える。
作品内の世界は衣食住足りて礼節を知るどころか、足りているにもかかわらず礼節を知ろうとせず、むしろ自らそれを蔑ろにする世界であるともいえる。では衣食住足りるに必要な理系の書物の扱いってこの作品の中ではどのような位置を占めるのか?と思うと、(人文科学・社会科学の本を焚書する任務に就く人物が本のエッセンスを切なくつぶやき、焼く行為が実際のところ単なるパフォーマンス・ショーに過ぎないと語らせているのは巧いが、)どうせなら理系の書物も焼くシーンや切なくつぶやかれる内容に自然科学の成り立ちを象徴するようなアフォリズムの一片を紛れ込ませたり、それが無理ならどうして理系の書物は焼かれないのかといった省察まで欲しくなってしまったのである。別の言い方をすれば、なんというか、人文科学・社会科学系の書物こそ神聖かつ崇高なヒエラルキーの高いものという意識が透けて見えてしまうのだ。
作品内の「戦後」に街に戻る人々のなかに宿る書物の中に理系の書物、自然科学、数学、農学や工学やこの場合医療科学や精神医学や経済学もあっていいし、一人の人間の中に文系と理系の書物を併せ持っていてもいいし、むしろ生き延びるにはバランスの取れた人も必要だろう。
もちろん、それは個人的な過ぎたる望みにすぎない。作品が全体主義の社会やインターネット上の膨大な情報や斡旋の情報に踊らされる自らの思考を停止しようとする人類への警告の書として十分な役割を果たしていることになんら異論はない。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




五木寛之 作『さらばモスクワ愚連隊』、『蒼ざめた馬を見よ』、『青年は荒野をめざす』読了。
こちらの番組で五木寛之氏が当時のソ連への旅について語っていた内容に興味が湧いたのが読書のきっかけだった。
ロシアへツアー旅行したとき、五木寛之作品を読んでいたという人がいて、当時はその人の気持ちが全く分からなかった。
しかし、今になって作品を読んでみると、とても面白い作品だと感じたし、物語を引っ張っていくというのはこうやるんだ、といったお手本のような作品だと思った。
こんな私がこう書くのもなんだが、モスクワの街の描写は細部にわたっていて、やっぱり「こんな作品を書けるということは実際に現地に行ったことがあるな」と正直に思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




日の入り前に下りねばと少し焦った








圧巻の夕陽だった




虎御前山か

また別の日にぜひ来たいと思った。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )