デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ムグンファ号が
ホームに入ってきた。


日本の鉄道は駅のホームの高さと
車両の扉の高さが同じことが多いが、
外国では2・3段のステップと手すりを
使って乗車することも珍しくない。


車内の様子。一応、席の
網籠に切符を差し込んでおいた


しばらく農村地帯がつづいた。

今回の旅は長距離バスやKTXなどの高速と名の付くものばかり乗るかもしれないと思っていた。こういっちゃあなんだが、急行列車にも乗れて嬉しかった。
西大田駅が近づくころ、窓側の隣席の婦人が「オディ・ネリム…」と私に話しかけて来た。私は「どこまで行くんですか?」と訊かれたと思ったが、「ネリム」の意味をかろうじて思い出せて婦人が「(あなたは)どこで降りるの?」と言っているのではと察した。西大田のことをカタカナ語アクセントで「セオデジョン」と返事したが、やっぱり通じていなかったので、チケットを見せた。婦人も同じ駅で降りるようだった。


35分くらいで西大田駅に着いた。


現代的な構内だ

西大田駅も市の中心というか
基幹駅の機能を担っているようだ

ピッカピカ(笑)

少し間違えそうになったが
駅正面口の方に出れた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2番線へ


向かいの3番線に列車が来ていた。


この車両の感じ、日本でも見られる
地方の列車で現役な車両っぽかった


一番後ろが運転車両でないまま
走っていく姿を久しぶりに見た


さっき渡った跨線橋の真下だ

何度も書くが英字での
表記は本当に助かった



ムグンファ号が来た



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




論山駅正面口への跨線橋

ケベク通りからは跨線橋を使って渡り、駅の正面口へ。






駅に着いたのが14時半過ぎだった。このとき私の頭の中には15:29発のIT-Xセマウル号のことがあり、1時間弱は駅周辺を散策できるかなと思っていた。


個人的な好みだが、旅行では
こういう景色も見たいのだ。


論山駅正面口。ゆったり
穏やかで静かな雰囲気だった

右がチケット窓口

チケット窓口で「서대전(Seodaejeon 西大田)行きありますか?」とだけ訊いたら、14:45発のムグンファ号1506があるという。
正直心が慌しくなったが、予定よりも40分近く早く西大田に着けたら、大田駅でのKTXの切符購入もかなり余裕ができるので、駅周辺の散策はあきらめてムグンファ号に乗ることにした。
チケット購入の際、50,000ウォン札を崩すつもりもあって札を出したら、「細かい札か、カードはありませんか?」と訊かれた(笑)。そりゃ、2,900ウォンのチケット買うのにデカイ札出されたら、窓口としても困る場合あるわな。仕方ないので5,000ウォン札を出してお釣りをもらった。
IT-Xセマウル号からムグンファ号になったことで、約2,000ウォンが浮いた。

ムグンファ号は2番線到着のようだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


積雪  



24日の夜から降った雪は十数年振りにけっこう積もった。きつい寒波が来ているのが実感できた。24日の夜には立ち往生する車も見かけたし、昨日は、おそらく雪のせいでスリップしパトカー相手に事故を起こしてしまったであろう事故現場を目撃した...。


京都駅の南側の通りですら昼頃でもまだ車道の中央に雪が残っていた。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




扶余から논산버스터미널
(論山バスターミナル)まで
40分と少しで到着した。


論山バスターミナル構内


ケベク通りの方へ

現地の標識でGyebaek-roとある
ケベク通り。前にも書いたが日本語では
「階伯通り」と表記してもいいのだろう。

帰国してから、頭の中で百済の将軍名と通りの名前とがつながったのだが、今ならば扶余だけでなく、論山駅の前の広い通り名にふさわしい理由が分かる。くりかえすようだが、ケベクは5千人の決死隊を率いて黄山伐(ファンサンボル)と今の論山市で、新羅の金庾信将軍の5万の大軍と戦って戦死した、百済の最後に散った名将の名前なのだ。


太陽を背にして
のんびり歩いた。


電動キックボードに二人乗りで
颯爽と横断歩道を渡る青年たち









農業用機械の販売・修理を
行なう店。「ひょうりむ」
の日本語を目にした。

論山駅への標識だ

論山バスターミナルからケベク通りを北東へ400mくらい歩くと鉄道の論山駅に着く。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





昨年(2022年)5月、政府はマスクの着用についての方針を出し、10月には首相も鈴鹿サーキットでのF-1レースを視察した際、一時マスクを外したニュースがあった。
参考までに厚生労働省のサイト
https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kansentaisaku_00001.html
を(ご存じない方は)ぜひ一読されたい。つまり屋外では人とすれ違う際はマスクの着用は原則不要になっている。
記事のタイトルに見られるようなことを書くにあたり、弊ブログをご覧になる方々が厚労省のサイトにあることを前提にしているかどうかの不安を払拭するために、あえて上のリンクを貼らせていただいた。上の政府の方針を自身の中でアップデートせずに感情的になった人が弊記事に身勝手な苦情を送ってくるようなことを避けたいので、なにとぞ御寛恕いただきたい。




先日、また、多くの観光客が訪れる有名なお寺に行った。参道までの公園の時点で私も含め日本人であろうが外国人観光客であろうがマスクを外している人はそれなりにいた。

参道

有名な大門の手前

参道に入ったら友人連れや家族連れの観光客でにぎわっていて、マスクをしていない人もそれなりにいて、繰り返すようだが私もその中の一人だった。
有名な大門をくぐって他の日本人観光客や外国人観光客が足を止めている中門の手前に立ち止まり、左手にマスクを持った状態で中門およびその背景の建物をカメラで写しているその時だった。
私の左前から私の方に向かってきたおばさんが、サッカーやラグビーのようなフェイントな動きで私を避けた。私はおばさんの動きを思わず目で追ってしまって振り返って、おばさんを見据えてしまった。
プロスポーツ選手が顔面を負傷した際につけるような透明なゴーグルをして口元を覆ったおばさんが
「マスク!マスク!」
と、大声でのたまった。私は
「(ソーシャルディスタンス的に)離れているやろ」
と返事した(実際2mは離れていた)が、私が言い終わらないうちに、おばさんはまるで私のことを毒ガスか細菌兵器を見るがごとく駆け出して逃げ出した。
おばさんが駆け出したときには、おばさんのすぐ傍にはマスクを外している数人連れの東アジア系・東南アジア系・欧米系の旅行者がいたが、外国人旅行者には一言もなく、その中を縫うようにして走って行った。ご都合主義で身勝手で随分なダブルスタンダードだなと思った。それに、はた目から見たら、おばさんが逃げ去っているわけだから、ひどければ私に冤罪が降りかかるかもしれないのはよく分かるので、とても腹が立った。

おばさんが去った直後に撮影
他の観光客もマスクを外しており、
でもマナーはきちんと守っていた

「そんなにコロナが怖いなら、おばさん、どうして有名観光地になんかに来たのか?」と思いつつ、境内を10分ほど歩いた。感情が落ち着いてきた。そして、おばさんが外国人だけでなく私をフェイントアクションで避ける際に近くにいた日本人の鼻出しマスク状態の人にも何も言っていないことを鑑みるに、(被害妄想かもしれないが)私だけを標的にしたんじゃないか?という気がしてきた。数人は相手できなくとも、一人相手なら敵意をむき出しにしても構わない、この人おとなしそうだから反撃してこない、とおばさんは思っていたのか?
それはともかく、黙って自ら静かに距離をとればいいものなのに、妙なアクションを見せつけたあげく初対面の人にマスクを強要しようとするなんて、どんだけ自分本位なんだろう。ましてやマスクを着用していようが声を出したら飛沫が出て他人にうつすリスクがあるのに、自ら「マスク!マスク!」と周囲に聞こえる声でのたまって、卑劣にもこちらの意見は聞かずに逃げ出す、というマスク警察おばさんに実際に遭遇してみて、なんか昔TVでよく報道されたカルト宗教の信者みたいだなと思った。
「電柱から発せられている電磁波が教祖を攻撃しているので、螺旋のマークのシールを貼れ」だの、「某国の軍のヘリコプターが宗教施設周囲に毒ガスを撒いているので子どもの信者は建物から一切出てはならない」だの、突然家にやってきて玄関に居座り「あんたのお宅に霊がついている!あんたが先祖をきちんと供養していないからだ!」だの、と脅され続けたことで、要するに「特定の神聖な何かについて拝んだりお布施や高額なお札や壷の購入などをして対策をとらないと地獄に落ちる」と信じ込まさせられた人が布教に走ったことでたどってしまう末路の映像内容と、おばさんの振る舞いとはほとんど差異が認められない。
ずばり、コロナの捉え方も、人によってはカルト宗教化しているのだ。恐怖のあまりメンタルに深刻な傷を負ってしまい、政府の方針のニュースや厚労省のサイトの情報を自分の中で咀嚼しようとせず(もしくは知らず)、世間とのかかわり方をアップデートせずにいたことの結果だろう。
観光地のお寺を後にする時間になって、マスク警察おばさんは普段どんな風に過ごしているのか、ちょっと想像してみた。そして、私に対してのように身内や近所にも敵意むき出しで周囲から疎まれているならまだ「一貫性」があるのかも(迷惑だけど(笑))だが、酷ければおばさんの周囲の子どもや、喘息であったり呼吸器系や皮膚に問題を抱えていることからマスクを着けられない人にも敵意をむき出しにして、相手に有無を言わせないことで内心正義面を誇っていたりしていないだろうか、とその場合の反論したくとも困難を伴う人のことが心配になった。
また、マスク警察おばさんは、案外というか、おそらく身内や友人に対してはマスクを外してお喋りしていて、帰ったら私とのことをアタり散らしているのではないか、人間の心というものは浅ましく自己都合バイアスを平気で行なうし、そうでないと観光地には来ないだろうし、せめて今の政府の方針や厚労省の情報を、おばさんにうまく諭せる人がおばさんの周囲にいればいいなと思うようになった。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




扶余市外バスターミナルの近くにて


バスターミナルの周囲は商店街のような感じでいろいろな物が買えるようだ。露店も結構あって、バスに乗る前に果物を買う客もいる。


左上の2行目、クリーム色の文字で
経由地の논산(Nonsan 論山)とある。








13時40分出発











バスが発車し、階白将軍騎馬像を後にしてしばらくもしないうちに田舎の光景を目にすることになった。そりゃ、昨日の夜に真っ暗けのなかバスが疾走していたのは納得だと思った。



昨日からバスばかり乗ってる
なぁと、自分自身にボヤいた。

この辺りは農業が中心の地域のようだ。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




接岸




時間的なものもあり、すぐに復路の船に乗った。









山水画のような光景は朝だけだったようだ。







逆光で、百済滅亡に思いを馳せる
ような気にはならなかった。これも
旅行先でのあるあるなので仕方ない。







「百済」の旗がはためく

倭国の初めての対外戦争となった白村江の戦いは、百済滅亡の3年後の663年に起こった。
百済復興を目指す百済遺民・倭国の連合軍が、唐・新羅連合軍と戦った舞台は白村江の河口(現在の白馬江(または錦江(クムガン))河口付近)なので、これらの画像の場所ではない。だが、この白馬江をずっと南南西に下った所が戦いの舞台だったことを思うと古代日本ともつながりがあるんだなと思った。
正直に書くが、現地にいた時の私の頭の中では、百済滅亡と白村江の戦いが「同じ」だった。さすがに白村江の戦いのなかに「落花岩のエピソード」なんて無いことは分かってはいたが、それでも私のなかでは滅亡と戦いが混然としていた。



下船した

テント?パビリオン?

午前の間に同じ通りを歩いて2往復した割には見たものは限られているので、旅の効率だけいえば不効率すぎるかも。時間的なものを考えるとクドゥレへは、宿から歩いて行ける距離だったのだが、やっぱりバスが来ていたら乗りたかった。
コンビニの7イレブンがあったので、7,300ウォン分の昼食を買った。胃袋を落ち着かせるため(妙なチョイスだと思いはすれど)、おにぎりなどのほかにイチゴヨーグルトと牛乳も買った。
宿に荷物を受け取りに戻った。少し早かったので宿の椅子に座って昼食にした。まもなく朝の女性スタッフが出てきてくれて荷物を出してきてくれた。ありがたいことに私の昼食で出てしまったゴミも宿で処分してくださった。重ね重ねお礼を言った。お腹が落ち着くまでの間、Wi-Fiを使わせてもらって、スマホの画像のドライブへのバックアップをさせてもらった。
名残惜しかったが、扶余市外バスターミナルへ向かった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




普通な感じの白馬江

大した距離でないはずなのに、いざクドゥレ船着場まで歩くとなるとけっこう長く感じた。



遊覧船(白馬江クルーズともいう)が出港しようとしていたので、あせって10,000ウォン札を置いて「1장!(1枚!)」とだけ言って券を買った。往復券だったので丁度いい。さっそく乗り込んだ。


船内でもマスク着用率高い。

出港だ


朝に、あの上にいた

落花岩






ものの15分くらいで皐蘭寺船着場に着いた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




扶余中央市場

定林寺址からクドゥレ船着場までは中央市場を通っていくことにした。日本国内でも外国でも屋台街やいろんな市場があるとつい寄ってしまう。


入国時のpcr検査が廃止されてからだったとはいえ、市場がシャッター通りになっている可能性も少し考えていた。気兼ねなく通ることができてよかった。






魚介類を扱う店が多い印象だった。早朝じゃなかったのもあって、のんびりした雰囲気だった。



市場の中に食事ができる店があるかちょっと期待して探してみたが、私が見た限りは見つけられなかった。



朝にも通った道を再びとおって白馬江のほうへ。クドゥレ船着場の傍の駐車場は土曜日ということもあって混雑していた。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ