大極殿が見えるが西の方へ
平城天皇楊梅陵(へいぜいてんのうやまもものみささぎ)
(市庭古墳(いちにわこふん))
乙巳の変以降、平安時代の前期ごろまでは政権内での乱や変が結構起こっているが、乙巳の変と壬申の乱と平将門の乱以外はよく知らないという人が多いのではないだろうか。
実は私もコロナ禍にあって一人遺跡巡りをするようになってからようやく古代史に関する本を手にするようになってきて、長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の変、藤原仲麻呂の乱など、その後の政権に多大なる影響どころか時代に大きな転換をもたらした政変の詳細を知れば知るほど、「とんでもない事件じゃん」と驚くものが少なくないと思っている。今回はそんな政変の一つについて触れたい。
上の平城天皇楊梅陵は810年に起きた「平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変」の中心人物である平城天皇の御陵である。変は「薬子の変(くすこのへん)」とも呼ばれるが、事の発端として809年4月に平城天皇が病を得て弟の皇太弟賀美能親王(こうたいていかみのしんのう、嵯峨天皇)に譲位したものの、まもなくして嵯峨天皇が病になり平城太上天皇の体調が持ち直すという、ややこしい背景がある。
更に嵯峨天皇即位時における皇太子は平城皇子の高岳(たかおか)親王なので、平城太上天皇の権威と権力は維持されている状況だから輪をかけてややこしい。
810年1月嵯峨天皇は病に罹り元日朝賀の儀式も中止、3月には嵯峨天皇が天皇の意思を太政官に伝えるシステムの改革を行ない、7月にはまた天皇の病気が重くなったことで、嵯峨天皇と平城太上天皇との関係は微妙なものになった。そうした状況を受けて平城太上天皇は平安京から平城京への遷都を命じた。両者の衝突は決定的なものになった。
嵯峨天皇は東国への三つの関所を閉鎖させ、平城太上天皇から寵愛を受けていた尚侍(ないしのかみ)藤原薬子を解官(げかん)した。藤原薬子の解官を知った平城太上天皇は兵を徴発し平城宮からも官人や兵を従えて東国に向かったが、嵯峨天皇は坂上田村麻呂率いる精鋭部隊を急派した。東国への道が精兵に遮られていることを知った平城太上天皇は平城宮にもどって剃髪入道し、藤原薬子は毒を飲んで自殺した。
変を収束させる過程で嵯峨天皇は、事件の責任・罪を藤原薬子(とその兄の藤原仲成)にしぼって責めたゆえに、兄の平城太上天皇や平城太上天皇に付き従った官人や兵は死罪を免れている。よって長い間、変の首謀者は藤原薬子で平城太上天皇は受動的立場だったと(嵯峨天皇に)されたがゆえ変は「薬子の変」と呼ばれてきた。しかし研究が進んだ現在、平城太上天皇の変の用語が一般化してきている。
平城宮跡の北の県道は車通りが多いことがある。
平城宮跡の傍のバス停にバスが停まっているところを初めて見た。
若草山(画像は12月に撮)