デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




ミイラ展とポンペイ展を鑑賞した時に、久しぶりに外国を感じた気がしたし、展示内容の質及び量はほんとうに素晴らしかった。
とくにポンペイ展は充実していたように思う。4会場とも終了したが、鑑賞した時の展示物について、紹介することもあるかもしれない。
板谷波山展が開催されていた泉屋博古館では特別展よりも常設展の古代青銅器展のほうが強く印象に残った。ボランティアのガイドさんが丁寧に説明してくれて、また私の古代中国や中国全般に関するさまざまな疑問・質問に対してウィットに富んだ返答をしてくださってとても楽しかった。

来年もいろいろな特別展に足を運びたい。


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カルトナージュのミイラマスク、部分覆い(胸飾りや足覆い)

トリフォーンの葬送用ステラとミイラ札


バーが配された棺の模型

プタハ・ソカル・オシリス神像

『永遠を横切るための書』


ホルネジイトエフの『死者の書』:日出の太陽への崇拝


黄金のカルトナージュのミイラマスク


正面から





ディダスの娘、アフロディーテという名の
女性のカルトナージュのミイラマスク


女性と若い男性のミイラマスク

男性のミイラ肖像画

三日月型装飾のある首飾り


女性のミイラ肖像画

前回も少し書いたが、個人的に一番惹きつけられたのはグレコ・ローマン時代(前332-後395)のミイラに関する展示のセクションだった。もし大英博物館のエジプト関連の展示室に足を運べたとしても、いわゆる鑑賞のマニュアルに載っているような「優先して見るべき展示物」の案内に従って見ているうちに時間が経ってしまったりするだろう。
そう思うと今回の展示は非常にありがたく感じた。エジプトの文化や美術にもプトレマイオス朝やローマの影響が表れ、とくに子供のミイラの頭部の布に描かれた肖像がまるでローマ時代の別荘の壁画に描かれているようなものみたいな感じがした。
それにミイラマスクも死者の顔により忠実につくれらている気がした。「女性と若い男性のミイラマスク」なんかローマ市内の博物館に置いてあっても何の違和感もない。
ミイラも時代が進んだり統治者が変わったりすると古代エジプトのミイラに抱きがちな紋切型のイメージに修正を迫られる、このことに初めて気づかされた。


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けっこう混雑していた


若い男性のミイラ(前100年頃~後100年頃)


若い男性の棺(本体)(前100年頃~後100年頃)

ミイラの覆い布(前30年~後395年)

昨年の古代エジプト展の内容と重なる部分もあったので、正直なじみ深い感じがした。ただ、今回、階段ピラミッドを設計した建築家のイムヘテプの像を見れた驚きもあった。
第6章の展示セクションは撮影が許可されていた。実のところ、今回の展示でもっとも注目したかったセクションの展示物を画像に残すことができてよかった。
展示内容についてはまた次回。


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「こんにちは。ツタンカーメンです」

神戸三宮へミイラ展を鑑賞しに行ってきた。






三宮に遊びに来たのは随分ひさしぶりだった。少なくともいろいろな「宣言」の間中は、通りがかるぐらいしかできなかったので、これだけ人が溢れている祝日の三宮を見ると、ようやく活気が戻ってきた感じで良かった。


三宮の京町筋


ちょっと気温は低めだったが気持ちの良い日だった。


神戸市立博物館

博物館の周辺は変わりなかったが、入場時間のweb予約者優先のシステムに少し泣かされた。というのは今回の私のように県境・府境を越えるような移動の場合、電車の遅れなどによって予定通り着けないことも考えて予約しないで行ったら、「無予約の列」に長い時間ではなかったとはいえ並ばされたのだ。そんなのおおっざっぱな時間を予約しておいて、例え遅れたとしても待てば入館はできるので、予定通り着けないかもしれないことなんか考えるなという人もおられるだろうが、なんか心理的に抵抗があったのだ(笑)。
それよりも入館後チケットカウンターでチケットに当日の日付をスタンプする際や展示室に入る際「予約はされてましたか?」といちいち訊かれて、まるで「予約していない来館者を頻りに区別しよう」という意図が働いている感じがしたのはどうかと思った。
ところで、帰りの列車は緊急点検のために到着が遅れた。ナーバスなようだが、列車の遅れで入館予定時間に間に合わなかったら、どうなっていたのだろうと考えてしまった。


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古代エジプト展 天地創造の神話を鑑賞してきた。混雑緩和および先月の臨時休館の分を取り戻すためもあろう月曜日の臨時開館というのもあって、夕方からではあったが足を運んだ。ひさしぶりに見応えのある展示に満足している。
素晴らしい展示品のみならず、古代エジプトの創世神話や社会における神々の役割、死後の世界を当時のエジプトではどのように捉えていたのか、といった基本テーマをアニメーションを用いて分かりやすく解説する映像コーナーも充実していてとてもよかった。
すべての展示作品について感想を述べることは難しいが、私は「タレメチュエンバステトの『死者の書』」の展示およびその解説がとてもおもしろく感じた。
古代エジプトにおいて神が創った「秩序ある世界」の概念をマアトというが、ファラオはマアトを実現させるために努力し、民衆もマアトを意識しその倫理観でもって生涯を全うしようとも死は訪れる。
そして死者となってからは死後の審判にかかることになる。死者(の心臓:魂の象徴といってよい)は閻魔様に匹敵するような42もの神々に「生前悪いことは一切してません」と言い張った後、アヌビス神によって死者の心臓が天秤の片側にかけられるわけだが、天秤のもう片方にはマアトを象徴する羽が置かれ、天秤が釣り合えば死者は永遠を約束された天界に行ける。もし釣り合わなかったら二度と心臓も肉体も復活することはできない。
そこで登場するのが『死者の書』で、それは死者にとって都合の悪いことを42の神々の前で心臓が話さないようにする呪文・いわば指南書であり、確実に永遠なる天界に行くための呪文集である『死者の書』はミイラと一緒に人型棺に入れられた。またナイルとうり二つの天界に行ってからの農作業を代わりにやってくれるシャブティの像も一緒に。


照明で有翼のスカラベをかたどって床に映す演出もよかった

『死者の書』の展示を見たとき、マスクの下でプッと噴いてしまった(笑)。悪人正機・南無阿弥陀仏、お血脈、免罪符などに相当するような思想ってとっくの昔に存在し、紀元前も中世も今も人間考えることは皆同じなのだ。
もちろん、峻厳な42の神々の審問や心臓とマアトの羽を天秤にかけられる審判を心から畏怖する気持ちがあるからこそ、それを何とかやり過ごそうという呪文のニーズがあり、関門をクリアさえすれば天界に行けるので死を恐れることは無いというポジティブな死の捉え方がベースになっているわけだが、それが定式化しての『死者の書』となると儀式の一部として立派な経済活動を担うアイテムでもあった可能性をつい考えてしまったのだった。神殿に出入りする専門制の強い葬儀屋さん的なシステマチックな様子・姿は古代エジプトでも普通に見られることだったのかもしれない。


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時間的には短かったが夕方、京都市京セラ美術館へ日本大判写真展2021を鑑賞しに行ってきた。
写真への情熱の強さを感じる展示だった。会期の終わる週末までに時間に余裕があるときにもう一度行きたいものだ。


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泉屋博古館で開催された「開館60周年記念名品展 モネからはじまる住友洋画物語」
京都文化博物館で開催された「特別展 舞妓モダン」
京都国立近代美術館「森口邦彦 友禅/デザイン」

今年は以上の4つの特別展を鑑賞した。このご時世からして4つも行けただけいいのかもしれない。


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先日、相国寺承天閣美術館へ、茶の湯―禅と数寄展を鑑賞しに行ってきた。
相国寺境内で北海道から旅行で関西を訪れ、展の鑑賞を終えられた年配の夫妻に梅の木を背景に写真を写してくれるようお願いされた。喜んでシャッターを押させていただき、ついつい北海道の思い出を語ったら喜んでくださった。

さて展についてだが、私は喫茶店にはときどき行くものの、茶の湯と侘茶の違いなど普段から意識などしていないような者だが、そんな私でも展示内容には目を見張るものがあった。
展示されていた砧(きぬた)青磁茶碗の説明に「浙江省の龍泉釜でつくられた上質な青磁を砧青磁という」とあって、紹興酒や「蘭亭序」のイメージだけで浙江省を語るのはもったいないなと思った。
茶の湯の歴史を見た感じがしたのは17世紀の茶の文化について記した「隔蓂記(かくめいき)」と「隔蓂記」にある実物の品が並列して展示されているところセクションだった。これこそ一級の資料だ、誰かが記録として残してくれたことでリアルに感じる歴史というのはこういうことだと分かった気がした。
ほか貴重な墨蹟も見れたし、その内容には書いた人の嘆きたい気持ちが吐露されているものもあり、現代の人間でも思わず共感できてしまうようなものには笑みを浮かべてしまった。


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2019年も終わろうとしている12月下旬に、1月中旬にbunkamuraまで鑑賞しに行った「国立トレチャコフ美術館所蔵 ロマンティックロシア」の感想を書いておきたくなるとは自分でも苦笑せざるを得ない。


ロシア美術にそこまで関心の無い人でもこの「見知らぬ女(邦題:忘れえぬ女)」はどこかで見たことがある、という人は少なくないだろう。
昨年、展が開催されていることを知った私は「見知らぬ女」と「月夜(展では月明りの夜)」にぜひまた会いたいと思い、そのためだけに夜行バスでの強行軍旅行を敢行したのだ。
アレクセイ・サヴラーソフ「田園風景」、イリヤ・オストロウーホフ「芽吹き」、アブラム・アルヒーポフ「帰り道」、コンスタンチン・クルイジツキー「月明かりの僧房」、イワン・シーシキン「森の散歩」「雨の樫林」「正午、モスクワ郊外」、グリゴーリー・ミャソエードフ「秋の朝」、イワン・ゴリュシュキン=ソロコプドフ「落葉」、イリヤ・レーピン「画家イワン・クラムスコイの肖像」、イワン・クラムスコイ「月明かりの夜」「忘れえぬ女」、パーヴェル・チスチャコーフ「ヘアバンドをした少女の頭部」、ニコライ・カサートキン「柵によりかかる少女」、オリガ・ラゴダ=シーシキナ「草叢の少女」、アレクセイ・ボゴリューボフ「ボリシャ・オフタからのスモーリヌイ修道院の眺望」、ニコライ・クズネツォフ「祝日」、これらの作品に見入り、ほかにもメモをした作品も少なくなかった。
クラムスコイの2作品とレーピンの「画家イワン・クラムスコイの肖像」はレーピンの随筆『ヴォルガの舟ひき』の内容を思い出しながら特にじっくりと鑑賞した。

2019年に行った美術展については、弊ブログで触れた分以外にも「国宝 一遍聖絵と時宗の名宝」、「トルコ至宝展」、「西洋近代美術にみる神話の世界」、「佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美」、「円山応挙から近代京都画壇へ」にも足を運んだ。いずれも素晴らしい特別展だった。来年もいい美術鑑賞の機会に巡り合いたいものだ。


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横山崋山展に行ってきた。幸いなことに前期・後期ともに足を運べた。
展の目玉は「祇園祭札図巻」なのだろうが、私個人は紅花屏風と西湖十景図屏風、そして蘭亭曲水図屏風が最も印象に残った。
古来より中国から「蘭亭序」の存在や内容が日本に伝わっていたことは、今ならば分かる気がするが、江戸時代の絵師にとっても蘭亭曲水図が画題として大きなテーマであり、実際描かれていることを知ることができたのはよかった。
西湖も蘭亭も絵として描かれるうえでの型があるのだろうけど、西湖十景図屏風には三潭印月と三石塔、蘭亭曲水図屏風には詩作にふける詩人や酩酊する詩人そして鵞鳥もきちんと描かれているのを見ると旅へのあこがれを掻き立てるものがあった。


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