デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ガラスのピラミッドを目の前にする

一八五七年に電気による街灯が初めてできた(ルーヴル宮の近くで)。   [T1,4]
  ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

アルフレッド・フィエロ『パリ歴史事典』(白水社)の電気の項目にはこの記述は載っていないので、『パサージュ論』にある断片が歴史的事実であると言い切ることはできないものの、パリで電気による街灯が点ったのがルーヴルの近くであったのなら、現在のガラスのピラミッドがライトアップされた眺めもちょっと見方が変わるかもしれないと思った。
前にも書いたが、ベンヤミンは電灯が登場したこともパリのパサージュの没落の原因の一つに挙げている。おそらくパサージュで電灯が用いられるより、街灯に電灯が用いられ普及するほうが早く、そのせいでパサージュの方が色褪せるというか、妖しく光るどころか暗いものになってしまったのでは、と私は考えている。


夜のルーヴル宮中庭は不思議な空間だ。

これまで、パレ・ロワイヤルの記事の分も含めると4ヶ月以上に渡ってパリを旅行したときのパリのパサージュとヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』について触れてきたが、今回と次回で一旦パリのパサージュについての旅行記は終わりにする。

パサージュの没落ではなく急変。一瞬にしてパサージュは「現代(モデルネ)」のイメージが鋳造される鋳型となった。ここに一九世紀は自らの最新の過去を嘲笑とともに反映させたのだ。    [S1a,6]

「よそにあるものはすべてパリにある。」
  ヴィクトール・ユゴー『レ・ミゼラブル』(『全集――小説七』パリ、一八八一年、三〇ページ「ココニぱりアリ、ココニひとアリ」の章)

「死滅するものは何もない、すべては形を変えるだけだ。」
  オノレ・ド・バルザック『思想、主題、断片』
  パリ、一九一〇年、四六ページ

バルザックのエピグラフは、地獄の時間を説明するのに非常に適している。つまりなぜこの時間は死を認めようとしないのか、そしてなぜモードは死を愚弄するのか、どうして交通の加速化と、次々に版を重ねる新聞のニュース伝達の速さが、いかなる中断も突然の終わりもなくしてしまうことになるのか、そして区切りとしての死が神の司る時間の直線的連続とどのように関係しているのか、ということを説明してくれる。――古代にはモードというものがあったのだろうか。あるいは古代の持つ「枠の力」がそれを不可能にしていたのだろうか。    [B2,4]

永遠回帰の呪縛圏のなかでの人生は、アウラ的なものから脱していない生活を可能にしてくれる。   [D10a,1]

産業館の建設が決定される前に、水晶宮(クリスタル・パレス)を模範にしてシャンゼリゼ通りの一部をその並木もろとも屋根で蔽う計画が練られていた。   [F6,4]

各種の博物館・美術館のひそかな構造図式としての産業博覧会。――芸術、すなわち過去へと投影された産業生産物。   [G2a,6]

人間に「全的体験」を得させる何よりのものは、交換価値への感情移入なのではなかろうか?   [m1a,6]

新たな製造方式はさまざまな模造製品を生み出すことになるが、それとともに仮象が商品のうちに現われることになる。   [J66,3]

探究者、賭博師、遊歩者に共通している自発性はひょっとしたら猟師のそれではなかろうか。つまり、すべての労働の中で無為ともっとも密接に絡み合っている、労働のこのもっとも古い形態のもつ自発性なのではなかろうか。   [m5,2]

アウラの衰退の経済的な主因は大量生産であり、社会的なそれは階級闘争である。   [J64a,1]

フーリエとサン=シモン。「経済分析と現存社会秩序批判の面ではフーリエのほうがずっと興味深く多面的である。しかし反対に将来の経済発展についての見解では、サン=シモンのほうがフーリエにまさっている。当然のことながらこの発展は世界経済の方向へと……動くはずであって……フーリエが夢想したような自立した小経済のほうに向かわなかった。サン=シモンは資本主義的秩序を……一つの段階と捉えているが……フーリエはこれを小ブルジョワジー的といって拒否する。」V・ヴォルギン「サン=シモンの歴史的な位置づけについて」(『マルクス=エンゲルス・アルヒーフ』Ⅰ、<フランクフルト・アム・マイン、一九二八年>、一一八ページ)   [W4a,4]

学問の方法の特徴は、新しい対象へ導きつつ、新しい方法を発展させるところにある。ちょうど芸術における形式の特徴が、新しい内容へ導きつつ、新しい形式を発展させるところにあるのと同じである。一個の芸術作品には一つの形式しかないというのは、また、一つの研究には一つの方法しかないというのは、外面的な見方にすぎない。   [N9,2]

何年にもわたって一冊の書物の中のふとした引用の一つ一つに、何げない言及の一つ一つに鋭敏に耳を傾ける必要がある。    [N7,4]

「真理は、多面的だからと言って、二つあるわけではない。」Ch・B『作品集』Ⅱ、六三ページ、『一八四六年のサロン』「ブルジョワへ」    [J48,3]

街路はこの遊歩者を遥か遠くに消え去った時間へと連れて行く。遊歩者にとってはどんな街路も下り坂なのだ。この阪は彼を下へ下へと連れて行く。母たちのところというわけではなくとも、ある過去へと連れて行く。この過去は、それが彼自身の個人的なそれでないだけにいっそう魅惑的なものとなりうるのだ。にもかかわらず、この過去はつねにある幼年時代の時間のままである。それがしかしよりによって彼自身が生きた人生の幼年時代の時間であるのはどうしてであろうか? アスファルトの上を彼が歩くとその足音が驚くべき反響を引き起こす。タイルの上に降り注ぐガス灯の光は、この二重になった地面の上に不可解な〔両義的な〕光を投げかけるのだ。    [M1,2]

遊歩者というタイプを作ったのはパリである。それがローマでなかったというのは奇妙なことである。それはどうしてであろうか。ローマでは、夢さえもおきまりの道を行くのではなかろうか。そしてこのローマは、神殿、建物に囲まれた広場、国民的聖所があまりに多いので、一つ一つの舗石や店の看板ごとに、階段の一段ごとに、そして建物の大きな門をくぐるたびごとに、歩く人の夢の中にこの町はそっくり入り込みにくいのではなかろうか。また多くの点ではイタリア人の国民性によるのかもしれない。というのもパリを遊歩者の約束の地にしたのは、あるいはホフマンスタールがかつて名づけたように「まったくの生活だけからつくられた風景」にしたのは、よそ者ではなく、彼ら自身、つまりパリの人々だからである。風景――実際パリは遊歩者にとって風景となるのだ。あるいはもっと正確に言えば、遊歩者にとってこの町はその弁証法的両極へと分解していくのだ。遊歩者にとってパリは風景として開かれてくるのだが、また彼を部屋として包み込むのだ。    [M1,4]

「時代を越えた永遠の真理」などという概念とは、きっぱりたもとを分かつのが良い。しかし真理というものは――マルクス主義が主張するように――ただ単に、認識の時代的関数であるばかりではなく、認識されたものと認識するもののうちにともに潜む時代の核〔Zeitkern〕に結びついている。この点はまさに真であり、それゆえ永遠なるものはいずれにしても、理念というよりはむしろ洋服のひだ飾りのようなものである。    [N3,2]

子どもが(そして、成人した男がおぼろげな記憶の中で)、母親の衣服のすそにしがみついていたときに顔をうずめていたその古い衣服の襞に見いだすもの――これこそが、本書が含んでいなければならないものなのである。■モード■    [K2,2]

ここに引用させてさせていただいた断片のほかにも『パサージュ論』を構成する重要なエッセンスはたくさんあるだろう。とりあえず私が理解できた範囲で、たぶんベンヤミンはこういったことを言いたかったのではないか、と思ったものを挙げさせていただいた。ベンヤミンについて書かれている本では既に触れられてあるのは承知の上で、私なりにベンヤミンと彼の『パサージュ論』について(勝手に)整理した内容を開陳する。これまでの研究で分かっているベンヤミンの『パサージュ論』成立の過程と関係することは少ないが、少しでも上の引用の理解に役立つところがあったなら幸いである。

ベンヤミンはたぶん自分の幼少期にベルリンで見た皇帝パノラマ館(ディオラマ館?)を作り出した時代が19世紀、つまりそれらが19世紀のパリの産物で、その19世紀を「他人の語る」歴史は終末的で狂気じみていて悲惨な地獄の時代であるといった描き方をしているのを、ベンヤミンの目には常々おかしいものとして映っていたのではないだろうか。(とはいえ往々にして、「現在」を生きている人にとってその現在(の時代)は常に地獄であるものだ。まさに渡る世間は…だ(笑)、ドストエフスキーも自分の時代について地獄みたいな描き方をしている(笑))
誰も書かなかった自分なりの19世紀を書くための、足がかりになったのが、落魄したパリのパサージュに集っていたシュルレアリストたちの呼びかけに応じたことで歩き回ったパサージュで得た幼少期のことを想起した体験であった。ベンヤミンが幼年期に見た前時代の産物皇帝パノラマ館は、子どもにとっては最新のものであり、パリに残っていた寂れたパサージュもまさにその幼少期の記憶を想起させるものであった。
ベンヤミンのパリのパサージュでの体験は、夢見心地にさせてくれるものではあったが、それはまた幼年時代を想起させてくれるということは目ざめた人間であるからこそ想起できることを意味していたわけで、夢を見ながら覚めている状態をまず彼は自覚した。そういった目ざめたというか半覚醒状態にあって、19世紀をパリを群衆に紛れ研究し生きたのが文士であり、いわゆる遊歩者であった。遊歩者はパリの群衆や風俗や商業や産業を単にレポートするのではなく、その動きや働きの本質を詩的にかつ的確に表現する能力に長けていて、根が孤独な遊歩者であるベンヤミンは19世紀の孤独な遊歩者、その代表格であるボードレールによっぽど惹かれたのだろう。
以来、19世紀のパリはいかなる都市であったのか、パリのパサージュ、ひいては19世紀のパリに関する資料をオタクの星たるベンヤミンは蒐集家(マニア)の視点でかき集め、かき集めたものを、彼はまさに引用符が見当たらないような文章に仕立てて書いてやろうとした。ただ、資料をかき集めるうえでの信念は、まさに遊歩者しか気づかないような、19世紀の進歩に寄与していないとみなされがちなものでも進歩を説明するものであれば集め、物事の発展と衰退の捉え方を見直すかたちで、たとえ19世紀と20世紀の間を分断する溝やひびがあったとしてもその「ひび」を研究することによって、これまで意識化されてこなかった知を呼び覚まそうとする目的があったものだったのではと思う。
その遊歩者の視点から、これまで意識化されてこなかった知を呼び覚まそうとするベンヤミンの研究内容は多岐に渡った。とりわけ、19世紀から起こる商品の物神性の発生や、お金で全的体験を得れるということ、物神性を発生させるには商品が大量生産され、大量生産された商品はモードの発生とモードの死を延々と繰り返す現象の探究の意義は大きい。商品が物神性を獲得する現象をつくった、ひいては19世紀のパリの社会構造を作る時代の基調となったのは、フランス革命をきっかけにしたフーリエやサン・シモン主義の思想を実践に移した政治家と投機で儲けたブルジョワの行動力であった。彼らがフランスを産業国家へと押し上げる時代は、ちょうど商品が物神性を持ち、パリが公衆衛生面を改善および見通しをよくするために大改造・再開発に踏み切り、鉄骨建築の技術が進歩し鉄道が敷かれ、万国博覧会で群衆が自分の生活が豊かになり未来への夢を見た時代であった。それはまた倦怠を伴った延々と繰り返される進歩の夢を見させてくれる時代でもあった。
しかし群衆に未来への夢を見させた(眠りそのものの?)資本主義の黎明期の象徴である、鉄骨建築の技術が未発達だったころに建てられた温室やパノラマや、ベンヤミンが幼少期に見たようなディオラマのあった(欲望を肯定し進められたフーリエのファランステールの象徴でもあった)パサージュは、衰退してゆき、その存在を急速に忘れ去られるのであった。これらは消費者が全的体験を得れる物神性を帯びた商品を扱うデパートや、パリでの万国博覧会の開催や、フランスが産業国家としての地位をなすまでの戸惑いや踏み台になった残渣のような存在であり、逆にいえばそのパサージュの建設がなければ近代社会におけるすべての思想的潮流の始まりをもの語る口火は切られることはなかったのである。

ベンヤミンが幼少期のことを想起するきっかけとなったパサージュは19世紀の集団の夢の始まりであり、その夢を見ている眠っているときの心地よさは、彼の二度とない幼少期の記憶に結びつく、と書いていいのだろうか。その夢の内容は、商品の大量生産がまだできない時代のパノラマや、階級闘争が起こる前の時代のアウラであり、当然ではあるが目ざめた者にしか書けないところが残酷といえば残酷だ。
しかしその夢に留まろうとせず、その内容を暴こうとしたベンヤミンの精神力は強い。暴く方法として追悼的方法や前後に分断された時代の過去の生活形式が現在の生活形式に入り込んでいるものを捉えようする革命的な方法を用いようとした『パサージュ論』は、19世紀を地獄の描写から救出する試みであり、まさに夢からの目覚めを扱うものなのである。また『パサージュ論』はその独自性ゆえか、権威に擦り寄らない自由な精神を感じさせてくれる心地よさがあるように思う。おそらくベンヤミンは生活には困窮し孤高の人であったろうが、それは既存の権威から離れることであり同時にパイオニアとしてのさらなる権威と説得力をベンヤミンの著書に与えているといえ、自分の書くものが大変なものになる自信に満ちた、自分の時代が来ることを信じていたことになるのかもしれない。それだけでも十分かっこいい。

歴史を観るに当たってのコペルニクス的転換とはこうである。つまり、これまで「かつてあったもの〔das Gewesene〕」は固定点とみなされ、現在は、手探りしながら認識をこの固定点へと導こうと努めているとみなされてきたが、いまやこの関係は逆転され、かつてあったものこそが弁証法的転換の場となり、目覚めた意識が突然出現する場となるべきなのである。これからは政治が歴史に対して優位を占めるようになる。もろもろの事実とは、立った今我々にふりかかってきたばかりのおのとなり、そして、この事実を確認するのは想起の仕事である。実際に、目覚めとは、こうした想起の模範的な場合、つまり、われわれがもっとも身近なもの、もっとも月並みなもの、もっとも自明なものを想起することに成功するような場合である。プルーストが、目覚めかけた状態で家具を実験的に配置換えするという話によって言おうとしたこと、ブロッホが、生きられた瞬間の暗さという表現で見抜いていたことこそが、ここで、歴史的なものの次元において、集団的に確定されるはずのものにほかならない。かつてあったものについてのいまだ意識されざる知が存在するのであり、こうした知の掘り出しは、目覚めという構造をもっているのである。    [K1,2]

そして、現在にとってベンヤミンのとる方法は古く非現実的か、といえば私は決してそうではないと思う。むしろ今まで妄信されていた説に新たな光を照らし、思わぬ「ひだ」を感じとれそうな研究が増えているように思う。
その典型として、私は以前にも書いた『ユダの福音書』の存在から分かるキリスト教史も挙げられるのではないかと思う。ある意味(言葉は悪いが)教会の派の政治力と圧力と狂気でもって成立した現在の新約聖書の内容のつじつまの合わない箇所は、実はイスカリオテのユダが裏切り者でなくイエスから最も信頼されていた弟子であることを逆説的に証明しているにとどまらず、それを最も説得力のあるかたちで説明してくれている(それこそ当初はあたかも「ぼろ・くず」の状態で発見された)『ユダの福音書』の内容は、まさに過去(の自然なつじつま)が現代(にも分かるつじつまとして)に食い込んでくることそのものじゃないだろうか。

ところで、もう既に誰かがやっているかもしれないし、どこかで聞いた覚えのあるような気がしないでもないが、『パサージュ論』のことを考えていて、日本でも同じような題材でベンヤミンがやろうとしたことをするならば、「映画館論」がいいかもしれないとか思った。しかしこれは現在もシネコンどころか映画産業自体が十分に盛んなので、きびしいか。それに映画のもととなると、結局はフランスかよ!ということになってしまうし(笑)。

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17年ぶりに財布を新しいものにした。祖母の実家の偉い人が亡くなられ、葬儀とその後の法要に出たことのお礼のカタログから選ばさせていただいた。
見てのとおり、右の分がこれまで使っていたやつだ。貧乏性と言われてしまっても仕方がないが、とにかく17年以上使った財布は私になじんでいたのだ。買った頃は「まだ年端も行かぬ若造がこんな皮製のいいものを持ってるとは似合わないなぁ(笑)」と言われた時分であった。
しかし、17年間連れ添った財布は紛失もしなかったし、盗られもしなかった。それに日本だけでなく、これまで行った外国でも常に私とともにあってくれたのだ。
実際のところ、まだ17年間付き合ってくれた財布は一部を除いて十分に使える。なので、もし次に外国に行くことがあったなら、また17年の連れを使用するだろう。多額の現金を入れず、たとえスラれたりしても旅の最小限のダメージで済むようなリスクを管理するためのツールとして。そしてあまり考えたくはないものの、もし外国で無くなったとなったら、ある意味、外国で葬ることになるわけだ。そういった運命が訪れても甘んじて受け入れられるくらい、よくぞ今日までともにいてくれた。

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松尾山を登る

時間はあまりなかったが、今回の関ケ原散策で足を運んでおきたかったところには行けた。その場所は松尾山である。松尾山は関ケ原の戦いで小早川秀秋が陣を張ったところだ。ふもとから歩いて登って40分ぐらいで陣の跡に着く。








松尾山からの眺望




やっとこさ着いた、こりゃいい眺めだと思ったとき、次の断片を思い出した。

この仕事はどのようにして書かれたのだろうか。偶然がわずかばかりの足がかりを提供してくれるかどうかに左右されながら、一段一段登っていくようにして書かれた。それは、危険な高所にまで攀じ登る人が、もしも眩惑を起こしたくなかったら一瞬たりとも周りを見てはならないのと同じだ(だが、それは、彼の周りに広がる眺望(パノラマ)の迫力を味わうのを一番最後にとっておくためでもある)。   [N2,4]
   ヴァルター・ベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫)

私は関ケ原の闘いについてよく知らないけれども、少なくとも当時の兵士たちが戦のため陣を張るためにここまで登ってきた大変さは身にしみたし、ここまで来てこそ、小早川秀秋の心境をわずかでも推し量れるのかも、と思ったりするのである。


家康から鉄砲で急き立てられたときの
心中はいかなるものだったのだろう…。


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福島正則陣跡






藤堂高虎・京極高知陣跡

徳川家康の最後の陣地のあとは時間もなかったので、車で史跡をまわれるだけまわることにした。
解説板にある大谷吉継の墓には行けなかったが、また関ケ原に来る機会があったら行きたいものだ。

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こちらに行ってきた。
事前に展の図版を見る機会があり、その中で見たいなぁと思った作品をチェックして行った。

・ルーベンス「デキウス・ムス」連作
・ピーテル・ブリューゲル2世「ベツレヘムの人口調査」
・ルーカス・ファン・ファルケンボルフ「盲人の寓話」
・ハンス・フォン・アーヘン「狩りの後で休息するディアナとニンフたち」
・クエンティン・マセイス「徴税吏たち」
・フランチェスコ・アイエツ「復讐の誓い」
・マルカントニオ・フランチェスキーニ「井戸端のヤコブとラケル」
・フリードリヒ・フォン・アメリング「夢に浸って」
・ヘリット・アドリアーンスゾーン・ヘルクヘイデ「ハールレムのマルクト広場、市庁舎のある眺め」
・エリザベート・ヴィジェ=ルブラン「虹の女神イリスとしてのカロリーネ・リヒテンシュタイン侯爵夫人(旧姓マンデルシャイト女伯)」

これらの作品をぜひ見たいと思って足を運んだが、よりによって全滅であった。これらの作品は東京では見れたらしいが、以前食らったヴァザーリの回廊にある自画像の大阪での展覧会同様、この展覧会でも巡回する地方へは洗練された作品たちを持って行かないという冷遇措置がとられたようだ。契約や会場の展示スペース等の問題もあるのだろうが、ここまで自分の興味をそそる作品ばかり間引くとは、悪意すら感じるほどだ。
どうせならチケットをもぎられて展示室に入る前の「あいさつ」の横にでも大きく「おことわり:地方巡回では来ていない作品一覧」を掲げといてほしい。展示室内に入って気づき、あの絵がないのですが?と職員さんに尋ねてからがっくりくる幻滅を味わいたくないし、申し訳なさそうにする職員さんも可哀想だ。そして前も書いたが、どうせなら東京と巡回地で展示作品が異なるなら、展示会場の内容の差異を正確に反映させた個別の図版や絵葉書を販売して欲しいものだ。

今回の展覧会については。。。★★☆☆☆

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風で水面に波が立つ

一旦、関ケ原町歴史民俗資料館に戻り、徳川家康最後の陣地跡へ。



この場所については小さい字ではあるが写っているとおりである。
解説板に取ってきた敵の首の実検とあるが、それを見て「目付」という役のことを思い出した。目付は、戦終了後に敵の首を実検するだけでなく、戦のさなかでも高台から、

味方の誰々の部隊が(作戦通り、命令どおりに)どういった活躍をしているのか

目を光らせて、逐一記録している役でもあるのだ。
兵たちにとっては、戦において特に勝ち戦においては目付にアピールすることが重要だった。なにせ戦終了後の褒賞を得ること、引いては石高(こくだか)のベースアップなどその後の生活の収入に響いてくるのだから。
それは総大将が率いる直属の兵隊たちだけでなく、(家康と)同盟を組んだ大名たちとっても同じで、目付にアピールすることは自分の藩のその後の運命を決める性質をもっていた。つまり「家康殿、これだけ活躍したのだからこれからも我が藩とは昵懇の関係でいさせてください」というわけである。
また、歴史の授業および歴史をテーマにしたTV番組でもよくとり上げられるとおり、関ケ原の戦いでは、以前は豊臣家の忠臣みたいな大名・武将だったけど、時勢を読んだり家康の調略によって関ケ原の戦いから家康に味方した勢力も多い。
なので、そういった大名・武将たちは、家康にアピールしようと懸命になって戦の功を競い戦うわけである。その中でもっとも果敢に活躍したことで有名なのは福島正則であろう。


徳川家康最後の陣地

ところで、関ケ原の戦いの前哨戦とも呼ばれているものに真田昌幸と徳川秀忠の上田城の戦いがある。家康としては関ケ原に臨む前に、何かと軍略に長けてやっかいな真田昌幸を、東軍要(かなめ)の隊ともいえる秀忠の軍に叩かせ、それから親子ともども万全を期して西軍に対峙するつもりが、秀忠は真田昌幸攻略どころか、少なくない兵を失ったあげく関ケ原への到着が遅れた、その(秀忠が)遅れた遠因(ある意味誘引)となった戦いである。
関ケ原の戦いは家康の思ってた以上に早く開戦してしまったこともあり、秀忠の遅れは、目付の目に後(のち)に外様大名となる武将たちが、戦功をたくさん持っていく場面を映らせることとなった。つまり家康は「外様」から貸しをつくられてしまったのであった。
この最後の陣地で家康は、本音としては自分たちと譜代大名たちで日本を治めたかったのに、「外様」に借りができてしまったことで権力の掌握が遅れるであろうこと、権力を掌握してなお面倒くさい外様大名に目を光らせつつその後の時代を治めなければならなくなるであろうことを苦々しく思いつつ、目付ともども敵の首を実検していたのかもしれない。

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ルーヴル宮の中庭ナポレオン広場へ

集団の夢の家のもっとも際立った形のものが博物館である。博物館には、一方では学問的な研究の、他方では「悪趣味の夢の時代」の要請に応えるという弁証法があることを強調しておくべきだろう。「ほとんどすべての時代が、それぞれの内的な姿勢に従って、特定の建築課題を発展させているように見える。ゴシックの時代は大聖堂を、バロックの時代は宮殿を、そして一九世紀初頭は、後ろ向きに、過去にどっぷり浸かる傾向があったために、博物館を発展させた。」ジークフリート・ギーディオン『フランスにおける建築』三六ページ。私の分析は、過去へのこうした渇望を主対象とするものである。博物館の内部は、私の分析では、巨大なものになってしまった室内ということになる。一八五〇一八九〇年の間に博物館に代わって博覧会が行われるようになる。この両者のイデオロギーの基盤の違いを比較すること。    [L1a,2]

近代的な技術の世界と、神話のアルカイックな象徴の世界の間には照応関係の戯れがある、ということを否定できる者がいるとすれば、それは、考えることなくぼんやりものを見ている者ぐらいだ。技術的に新しいものは、もちろん初めはもっぱら新しいものとして現われてくる。しかし、すぐそれに引き続いてなされる幼年時代の回想の中で、新しいものはその様相をたちまちにして変えてしまう。どんな幼年時代も、人類にとってなにか偉大なもの、かけがえのないものを与えてくれる。どんな幼年時代も、技術的なさまざまな現象に興味を抱くなかで、あらゆる種類の発明や機械装置、つまり技術的な革新の成果に向けられた好奇心を、もろもろの古い象徴の世界と結びつけるものだ。自然の領域では、好奇心と象徴世界とのこうした結びつきを初めから持っていないようなものはなに一つとしてない。ただし自然においては、この結びつきが新しさというアウラの中でではなく、慣れ親しんだもののアウラの中で作られるのである。つまり回想や、幼年時代、夢の中で。■目覚め■    [N2a,1]

ルーヴル宮のガラスのピラミッドについて。ベンヤミンのいう"集団の夢の家のもっとも際立った形のものが博物館"、その博物館の前に現代世界の技術を用いて建てられたのが"神話のアルカイックな象徴"である「ピラミッド」であるというのは、正直できすぎであろう(笑)。エッフェル塔は美としての良し悪しはともかく、過去未来の象徴のようなところがあるが、ガラスのピラミッドはノスタルジーどころか古代の完璧な形状やその思想そのものを現代的アレンジを施して復旧させたようなところがあり、『パサージュ論』うんぬんなしにパリの街にフィットしないという奇異を感じないでいる方が無理かもしれない。
逆にいえば建築デザイナーとしては、してやったり!なところがあるのかもしれない。ベンヤミンのことを踏まえてのことかそうでなかった分からないけれども、私からすればベンヤミンに対する諧謔のように思えてしまう(笑)。

ちなみにガラスのピラミッドが建つ前のルーヴル宮は、その半分が大蔵省として使用されていた。しかしルーヴルが美術館としての魅力でより多くの客を呼び込むために、大蔵省は移転することになった。
そして大蔵省移転後、ルーヴル宮を美術館として現在の外観を生かしつつ、展示スペースも増やしより多くの来館者に対応するために、ルーヴル宮は増改築されることになった。
ガラスのピラミッドが建つ前になされたことは、中庭の整理であったが、その中庭の地下は中世の要塞として使用されていた頃のルーヴルの土台であったので、中庭の整理はいわば発掘作業であった。増改築のための課題は、中庭の地下を活用して中世の土台を残しつつ、展示品や人の移動のための有効なスペースを確保するというものになり、さらに地下への採光も考慮に入れなければならなかったようである。
その点、増改築にガラスを使用したのは巧いと思うし、おかげで機能的なルーヴル美術館の入口はいつも明るい。また、本物のピラミッドと比率がほぼ同じのガラスのピラミッドは、ルーヴルにあって最古で最新というおもしろい感覚まで味わわせてくれる。


ガラスのピラミッドは夜に映える

私の思うベンヤミンに対する諧謔については、もう一つ、ベンヤミンより10年程年上のジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』に対し、もしベンヤミンが『ユリシーズ』を読んでいたならどう思ってたろう?といった興味ももっている。
『ユリシーズ』(1922)はホメロスの「オデュッセイア」のパロディで、1904年6月16日木曜日のダブリンを一人のおっさんがうろうろするだけの話なのに、その描き方は人間の意識の気まぐれでぐちゃぐちゃな働きや外から受ける刺激や感覚、その反応を逐一表現しようとしている。さらに、ストーリーを構成する各章には小説のあらゆるジャンルのパロディを配置し、それが絵巻物のごとく展開され、その絵巻物では英語という言語の古文から現代文の文体を駆使し、あげく映画に先駆けてモンタージュ手法に相当するような行間をうまく用い文芸で視覚的なものとして表現してしまうなど、人間の感覚や意識の表現に加えアイルランドやイギリスと古代ギリシャの歴史と文化の隠喩を詰め込んだ、それでいて描かれているのはあたかも平凡な「1904年6月16日木曜日のダブリン」の再現だけに他ならないといった、極めて読むのに面倒くさい、ある意味最初で最後の形態を持った小説である。
ジョイスからすれば、16・7年前のダブリンのとある一日を極めて独創的な方法で描いただけの小説なのかもしれないが、ベンヤミンが作品を読んでいたなら、(19世紀を扱った内容ではないにしろ)「やられた! ひだを小説で表現されてしまった! ガラスのピラミッドを建てられてしまった!(笑)」と思ったかもしれないと私は思っている。

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島津義弘陣跡から小西行長陣跡へ

石田三成の陣跡からの合戦配置図を見てからは、このあたりも戦いが繰り広げられていたところなのだ、と思うようになった。でも、のどかではある(笑)。


開戦地

この石碑は実際の開戦地からは少し北側に移されているもの、といったようなことが解説板にあった。


小西行長の陣跡

キリシタン大名の小西行長も関ケ原では奮戦した。関ケ原で敗れた行長はキリシタン故に切腹を拒否し斬首された。



関ケ原の戦いで小西行長という主君を失った行長の家臣たちの中には、後の島原の乱で天草四郎側について身分の分け隔てのない組織だった軍をつくるのに一役買った人もいる。島原の乱がただの一揆どころか、幕府と事を構えた大戦(おおいくさ)となったのは彼らの力が大きい。
島原の乱後のキリシタンに対する幕府の姿勢は建前上は変わらなかったが、島原の乱は幕府に仁政を敷かせる一つのターニングポイントになる。敗れはしたものの、小西行長の家臣たちの犠牲は、決して無駄なものではなかったのである。

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民家の傍にも案内表示が

島津義弘陣跡へ。


島津義弘陣跡

神社の裏にあったので、陣跡を見つけるのに少し時間がかかった。
陣跡には西軍の敗戦が濃厚となったときの義弘のとった壮絶な撤退の方法に心を打たれた。たとえわずかな兵しか生き残れなかったとしても、なんとか薩摩へ帰ったこと、その後徳川との緊張はつづいたものの結果的に家が存続したことは、250年後の大きな時代のうねりへの止揚となるのである。

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石田三成の陣の跡へ

私のもっている石田三成のイメージは、優秀な官僚で非常に計算に長けた人かつ登用されたことの恩を忘れない義理堅い人、冷静ではあるが思いのほか勇敢であった人というものである。


陣跡は小高いところにある



戦況が分かる位置だったのだろう

石田三成の陣の跡には合戦における東軍・西軍の配置図とともに、ボタン一つで関ケ原の戦いの概要が聞ける音声ガイドが設置されてあった。その音声ガイドでは、徳川家康と小早川秀秋は戦の前から密約を結び、寝返りは計画的なものという説明になっていた。

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