デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



街なかなのに電線・電柱が目に
映らない。ある意味、別世界だ。




さすがに奈良時代の水路や水田は現代の
ような感じではなかったのでは、と思う。




若草山が見える。近く見えるが歩いて行くとかなりの距離だ。

小子部門(的門)


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9月、また奈良へ





近鉄奈良駅だ

事前に地図を見て知っていたはずなのだが、何を血迷ったか県庁から平城宮跡まで歩いて行ってみようと気になった。
歩いて1時間の距離だが、その日は、奈良時代には今の平城宮跡から東大寺まで牛車や馬で移動していたろうが、それは貴族たちであってそういった移動手段を持たない人たちが歩くとなればどれほどの辛さだろうか、などと思ったので実行してみたわけである。


市庁舎からさらに西にショッピングモールを過ぎたら見えてきた。


来た!


平城宮跡には近鉄の線路が通っているようだ






列車が行ったあとの雰囲気はのどかそのものだった


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だいぶ日が傾いてきた





徳川家康陣跡





陣跡は流岡神社の一部でもある





枝が折れ上部が枯れるほど矢が飛び交った
という逸話もできるほど激しい戦いだった。










敦賀からの信長撤退の際、しんがりを務めた木下秀吉の名があがったのが金ヶ崎の戦いだが、その2ヶ月後に姉川合戦があった。姉川合戦では徳川家康の名があがったといっていいように思う。



自転車に乗った子どもたちがお喋り
しながら颯爽と走り去っていった。


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キリストの絵を修復したら、猿顔になってしまったニュースは昨日のことのように覚えているが、またしてもスペインから同じようなニュースが届くとは。
ただ、こういうことが起こる背景には文化財の保護や修復を目的とする法律の不整備や、文化財に関わる専門家への予算が減らされていることで、プロの修復師の育成が困難だったり、プロになっても食べていけないので外国への人材の流出の歯止めがきかなかったり、とどのつまりは文化に還元できない社会の余裕のなさといったものがあるように思う。


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春風や 麦の中行く 水の音 (木導)

姉川合戦のことを詠んだ句ではなかった。

芭蕉晩年の門人で木導(もくどう)という人の作品だった。木導は彦根藩士の通称直江作右衛門光任とある。







合戦の説明には新たな説も紹介されてあった。












国道から見える標示ではあるが
枝葉が覆いかぶさって見えづらい

国道へ抜ける橋は老朽化のため使用不可になっていた


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遠藤直経の墓から近いと聞いていたので、織田信長の本陣跡にも行ってみた。直線距離で300mくらい。本当に近かった。


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関ヶ原から西へ行くと滋賀県長浜市だが市から西も日本の戦国時代でよく聞く戦のあった所が少なくない。

遠藤直経(なおつね)の墓






この方角に織田信長の陣跡がある

朝倉・浅井連合軍と織田・徳川連合軍が戦った姉川の合戦(1570年)は広範囲で繰り広げられた。ちなみに古戦場碑のある史跡姉川古戦場と銘打っている地点はここから北北西に行った所である。
画像にある説明に見られる遠藤直経は浅井長政の重臣で織田信長を討つのにもう一歩のところまで迫ったという。敵軍に偽装し信長の陣に入り込んだが見破られ、討死したのがこの辺りなのだそうだ。
姉川の合戦を特集したテレビ番組で遠藤直経が討死した地点と織田信長がいた地点がかなり接近していることから実際の浅井軍の勢いはかなりのもので織田信長最大のピンチだったと言っていたがそれも納得できる。


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